連体修飾語の話
修飾の構造に最近興味を持っている。どうも、言語によって修辞的にけっこう差が出るのは、修飾構造の使い方なのではないかと思っているのである。
日本語の連体修飾構造は、文章をすっきりみせるためによく利用されている。
大やけどで死ぬかもしれない子供を抱いて微笑む母親の写真のほうがずっと現地の困難さをリアルに伝えていると思うのだが・・・・・・。そんなことを瀧野さん相手に力説した私だったが、実は私も大いに勘違いしていることが発覚した。(高野秀行『謎の独立国家ソマリランド』)
「そんなことを瀧野さん相手に力説した私」は「私はそんなことを滝野さんに力説した」と主述構造に変換することが可能であるが、実際には連体修飾構造が取られている。
つまり、以下の形式が取られている。
連体修飾構造+主語+述語
連体修飾構造は、目的語のほうにつくと、『文とは何か』にあげたように多重埋め込みになってしまい、情報が取りにくくなるが、主語につくぶんには問題ない。このような構造を取ると、二つの主述文を一つにまとめることが可能になる。
しかも情報の構造としても、「力説した内容→そんなことを力説した」と隣接しているところにスムーズに滑り込んでいく。連体修飾語でストーリーも展開しているのだ。
次の例もおなじように、主語を連体修飾と述語が挟むサンドイッチ構造になっている。
すでに莫大な赤字を抱え、もはやソマリ取材が仕事というより生き甲斐みたいになっている私が言うのもなんだが、「趣味でソマリアまでよく来るよな」と感心した。(高野秀行『謎の独立国家ソマリランド』)
英語などでは長い修飾語は関係節を取るが、どうも情報の流れの作り方は違うように思う。