形而上を考えると発狂する

オヤジは飲酒すると脳みその働きが活性化されるらしい。

マルクス・ガブリエルを見て明石家さんまだと思ったが、明石家さんまが「お笑い怪獣」なら、ガブリエルは「哲学怪獣」なのだろう。

明石家さんまが小林繁の物まねをしていた時期から今に至るまで取り憑かれているかの如く、生理的不快感を拭い去れないにも拘らず、いや拭い去れないからこそか、ガブリエルは「こいつ何言ってんだ」と老いて枯れた脳細胞を刺激してくれる。

ガブリエルは形而上学批判をする実存主義者らしい。

しかし、卑しき賈人として30年以上過ごしてきた、言い換えれば形而下の生活をしてきた身からすると、彼は充分形而上の世界にいる。

ここで、漢学オタクオヤジとしては、形而上/下の語源である易経のことを考えずにはおれない。

周易繋辞上伝
「形而上なるものこれを道と謂い、形而下なるものこれを器と謂う」

我らが幕末明治の先人の知識の該博さに感嘆するばかりだ。Metaphysicsを読み込み、よくぞこれが該当すると想起したものだ。

易は二進法の世界だ。仮想的な空間のように思えるが、このように考えられないだろうか?

現実は語るに落ちる、しかし、けしからん!と言ってもしょうがない。
であるなら、対極にあるものは何か?を考えて、その対極を想定した。
それが「形而上」=「形、しかるに上なる」もの・・・器のように形としては見えないが何らかの行き先を示す「道」があるはず。

想像するに、周易繋辞上伝が編まれた時代の現実(=形而下)は現代をはるかに超えた理不尽さと複雑さをはらんだ人間関係の社会であったはずだ。

だから生存する為の解を求めて、そもそもの「道」(=形而上)とは何なのだ、と説明を求めても際限ないから、考え始めると気が狂う。

かたや人の世は予測不能の確率論の世界、考え過ぎても詮無いから場合の数の母数は3次元(=2の3乗=八卦)にして、人事を尽くしたあとは運に任せましょう・・・

と、いうことではないか?

現世の日常に不確実性が皆無であれば、だれも発狂することなく、リスクがあれば事前に足が止まる。断崖絶壁に迫っても、崖ギリギリにまで達する前に潮風の匂いで足を止めるようなものだ。

だが、歩みの前に断崖絶壁があることはわからず、潮風の匂いも感じられない、というのが現実。

不安で不安でしょうがないが、当たるも八卦、当たらずも八卦・・・で行きましょう!

と、古代の先哲らは考えたのではないか???

振り返って、「お笑い」「喜劇」は実は形而上の世界ではないだろうか?

架空の世界で、絶対には達成しえない予定調和=落ちを求めているのではないだろうか?

これもまた八卦か? はたまた不条理劇か?

そして、明石家さんまは30年以上眠らずしゃべり続ける。

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