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『風の時代を行く』もうやめよう!「比べっこ」①
~実在とバーチャルリアリティのはざまで~
普段私達はものを見たり判断(ジャッジ)したりする時に、何某か物差しというか判断のベースになる軸を持っています。私達は生まれてからの家庭教育・学校教育・社会教育を通して、みんなに共通なものとしてたくさん知識を教え込まれて、それを共通の知見、軸としてものごとを判断して生きて行くように、知らず知らずの内に育ちます。
でも前々回の「みんな何を見ているの?」で述べたように、実はものごとの捉え方は人それぞれ違っており、捉えた情報を基に作り上げている世界像もみんなそれぞれ独自のものだと言うことも否定できまません。
こうしたことを(メタ認知的に)しっかり踏まえて置くことが大切だと思うのですが、今回は私達が共通の軸の上で行っていると思い込んで、ついついやってしまっている「比べっこ」について、少し考えてみたいと思います。
もうやめよう!「比べっこ」①
今から40年以上前の話になりますが、私がまだ20代の時に某大手日用品メーカーの事業部で商品開発を担当していました。元々技術系のバックグラウンドだったのですが、事業部の商品開発は広い意味で言うマーケティング業務になります。担当になって少しは勉強しないといけないと思いマーケティングの本を読んだりしたのですが、よくマズローの欲求階層説が引用されていました。当時既に趣味的な世界で精神世界とか神秘思想の本をたくさん読んでいて、こうした本の中にもマズローの欲求階層説を引用しているものがありました。
面白いなと思うと同時にこれは欲求階層だけれど、そのまま意識の階層に置き換えられると思いました。
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ここで言う意識階層は、顕在意識・潜在意識・深層意識と言った分類とはちょっと違ったものです。世の中では、その発展方向に対応してマジョリティの人達の意識の持ち方が変わって行くもので、それがマズローの欲求階層説に当てはまると感じました。ほとんど「欲求」という言葉を「意識」という言葉に置き換えただけだとも言えます。
1番目の「生理的欲求」が「生存意識」に、2番目の「安全・安心の欲求」が「種族維持意識」に相当しますが、この二つが生物としての本能になります。3番目の「社会的(帰属の)欲求」が「集団帰属意識」に対応し、長い人類の歴史時代で一部のエリート層を除く一般の人達は、この意識を中心にして生きて来たと思います。
宗教的規範のパラダイムから時代が科学的なパラダイム・実証主義のパラダイムに進み、社会的には産業革命が起きて1次産業中心の世の中から2次産業、更には3次産業に中心が移りました。こうした変化を組織の方から見るとアンバー、更にオレンジへの変化が進んだ感じでしょうか。そして、それに合わせてマジョリティの人達の欲求が4番目の「自尊の欲求(承認欲求)」に成り、これが「優越意識」に相当します。
この意識の特徴はみんなに共通と思われる評価軸を基に、優劣、良し悪し、善悪(正義と悪)、正誤などのポジショニングを行い、「比べっこ」することです。そしてほとんどの場合自分自身を良いとか、優秀とか、正しいとか、正義とかいう上の方、いい方に位置付けてジャッジします。今の世の中では70%くらいの人達がこの「優越意識」階層にいると、私は勝手に思っています。残りの30%の人は概ね「集団帰属意識」階層に居ると言えるでしょう。
これから私達が向かうべき「自立意識」階層、違いを違いのままニュートラルに受止めて楽しめる意識の人は、まだ1%くらいかなと思います。
今回取り上げた「優越意識」「比べっこ」の意識は、特に産業革命以降、資本主義社会を発展させる原動力になって来たと思います。より優れたものを考え、自らも優位なポジションを得ようという思いが、生産性の向上、より便利な生活環境、社会全体の進化、経済発展を生んで来たんだと思います。ある意味人間社会全体の進化のプロセスの必然でしょうか。
そうした私達人類の進化発展を考えると、これまでの流れの弊害としての社会問題(例えば差別意識を生んだり極端な貧富の差を生むこと)や環境問題などが急速に顕著になって来ている昨今です。その問題のひとつのベースとなるところに、私達の意識が「優越意識」「比べっこ」意識の階層にあることが上げられないでしょうか。
何故、優劣、良し悪し、善悪(正義と悪)などの「比べっこ」が必要なのでしょうか? 今回は少しこうした「比べっこ」について深堀しようと思ったのですが前段が長くなってしまいました。また次回に繋げようと思います。