【読書録】シャイフ・ハーレド・ベントゥネス『スーフィズム イスラムの心』3くらい

 バラバラに触れて来たのでナンバリングがどの辺になるのかわからないので、だいたい三回目とする。

 しかし、理性の罠には注意しよう。私たちが神の永遠性という観念を知的に理解しようとするならば、それはあたかも瞬間の中に時間を取り込もうとするようなものである。それは不可能である! 分は時間を含みえない! 私たちは時間の一部、時の一部である。もし私たちが時を、したがって永遠(神は永遠だから)を取り込もうとするなら、個体性の限界は消滅しなければならない。あるハディースは言っている、「時を侮辱するな。それは永遠であり、神は永遠であるから」と。知的には私たちは限定されているので、誰もそのようなことはできない。しかし、いつの時代でも、哲学者や思想家は理解し思索しようと無駄な努力をしてきた。私たちは知性の有用性を否定はしないし、緻密な思考をする人に思索をやめるように求めることはしない。むしろ逆に、私たちは彼に、思弁的な論証に没頭するのをやめるように勧めたい。神は秩序であり神秘である。不毛で複雑な論証はその領域では何の役にも立たない。

シャイフ・ハーレド・ベントゥネス『スーフィズム イスラムの心』
、164

 語気が強いんじゃ。ベルクソン涙目。
 全てを、時間における点と線の関係、直接的な時間というものの考え難さに人生を費やしてきたと言ってもいい、ベルクソンの思想の、あるいはその先駆者たちの真っ向からの否定と見ていい。たぶん、どちらも正面からこの点において相手を反駁するために話そうとか、どちらが真実か言い争うなんてことは、しないだろうが、それでもどちらがどちらの主張を見ても、絶対に納得できない一線があると感じるだろう。キリスト教の「ナチスを許した」発言もそうだけれども、基本的な語調からは想像できないほど、相容れない考えに対する語調が強いんよ。


 死へのイメージの作り方も印象的だった。

 例えば、道の人は恐怖から解放されているが、理性の中に生きている人にとっては、それは一つの強迫観念である。彼はそのような開放は、身体も魂も消滅することであると考えるが故に、まったく夢想だにできないのである。修行者にとっては、死は重大な問題というイメージではなくなり、連続する霊的過程の一つの通過点にしかすぎなくなる。むしろ、死は求めるべき目標なのである。預言者は言っている、「死ぬ前に死ね」と。「死の前の死」とは、自我の強迫観念、私たちを虜にするあの限定的思考がすべて消滅することを意味する。この解放である死によって私たちは第二の生を生きることができるのであり、それによって私たちは普遍的なもの、永遠なものへと開かれる。

同、110

イスラム教のスーフィズムにおいては、私とは、究極的にはない。自我の消滅を目指して修行をしている。それとパラレルになっているのだろう、この死への恐怖の消滅も。私はないが、前代から当代、次代へと連綿と連なっていくこの神の観念、宗派、血、そういったものは厳然と存在する、私よりそういったものの方が、濃く存在する、と日々言い聞かせている。その先に、この死への恐怖の薄まりがあるのだろう、副作用といっても良いかもしれない。

 私は生きるために働かなくてはならないし、道を登るために祈らねばならない。しかし、それらはすべて一つなのである。世俗的な活動も霊的活動も同じ方向に向けられている。それははるかにより単純で、より有効なことである。私の仕事は一種の祈りとなる。預言者は言っている、「この世では、永遠に生きねばならないかのように働け。あの世のためには、明日にでも死なねばならないかのように働け」と。仕事はあの世においても役に立つことを知った上で、それを意識しつつ私は仕事をしている。

同、119-120

 ここで「働く」と言っているのは、おそらく、たとえば教団の生活に関わる事とか、対外的な講演とかそういったことを指しているのだろう、私たちが普段こなしている、世俗的な仕事だ、そういったものの中にも、来世に持ち込める何かがある、といったことを言っている。仕事や、趣味でも同じかもしれないが、何か一つのことをこなそうと思った時に、それと等倍の努力のイメージを持っていると、うまくいかないことがある。じっさいには、もっと必要なのである。いわゆる「死ぬ気で」やらなければ、こなせないことがあり、それは遠く響くように神学と関わっているのだろう、神がかった仕事をこなすことができる人が、神聖に見えるのは、そういうことなのかもしれない。
 私は神を信じているわけではないから、神がいるからそうなる、と結論するわけではないが、ここに何かがあって、自分の身から遠く、消失点のように見えるものへ向かって、天才と呼ばれる人は努力を続けているのだと、世俗的に解釈しており、おそらくそんな風な理解だけ得てもいいのだろう、もともと神学のつまみ食いのような読書だ。
 その消失点が、たとえニーチェが言うように、狡猾に組み込まれた仮構されたものだとしても、それが一部の人類を引っ張ってきたことは事実なのだから、大いに価値があるといえる。

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