【日記】でんじろう
科学は平和利用できるのだろうか。根本的に、である。我々はしょせん科学の力を借りなければ、現代では生きてはいけないという、その前提は取り払ったうえで、取り払うというか、それはそれで認めつつも、全力で科学を回転させるのか、それとも留保付きで必要な分だけ回すのかで違う、という意味で、どの程度科学に信頼を置くのか、と言い換えてもいい、……
そんなことを、米村でんじろうを見ながら、考えた。
科学の側の言説では、もちろん、出来ると言っている。アインシュタインが平和への声明を出さなければいけないような、緊迫した、科学の暴走への視線は、どうかして掩蔽したものか知らないけれども、風化したり、ないものとして扱われていたりする。
また、現在でもクリティカルな問題として語られている、原子力発電、原爆水爆の問題。その線から考えるとすると、原子力、原子核から生み出されるエネルギー全般というものが、真に安全な使われ方をするか、あるいはどうにかして全く使用されないようになったとする。そうしたら、科学全体の歩みは安全なものになるのであろうか。
米村でんじろうを見ていると、どうもそう思えなくなってきた。
誰かの孫引きであった、たぶん中沢新一であるが、中沢新一が引いていた、岡本太郎の発言がある。やはり、核の力というものが、科学のひとつの極として、無視できないものとして存在する。岡本太郎は、しかし、その科学の爆発力、みたいなものがあるとして、それと芸術の姿を重ねる。文字通り、芸術が、爆発だ、というわけだ。科学を肯定しているわけではない。ものすごく慎重な論の渡りをしているので、ここで何かを判断はせずに、まず原文に当たってほしいし、中沢新一の解釈にも当たってほしい。
だが、ここで、岡本太郎-中沢新一が、言わんとしていることは何なのか。科学に全幅の信頼を置くでもなく、だが、実質上科学に頼って生きざるを得ないのだから、そのどこからパワーを注ぎ入れているのかということに、自覚的であるべきで、その調整をするべきだ、と、単純化すればそういうことになるのではないかと、自分は解釈した。
一方で、これは本当に冗談とか極端な物言いではなく、科学に全幅の信頼を置き、しかもそれをスポークスマンとして、世の中に撒いている人間として、でんじろうがいるのではないか。
テレビで、簡単な科学実験をしているでんじろうは、仮の姿とまでは言わないが、彼の一面しか現していないと思う。一度、彼が思いのたけ好きなだけ振る舞っている、ユーチューブチャンネルを見たことがある。液体窒素や液体酸素を用いて、何やら実験していたり、ちょっとしたものではなく、完全な真空を作るには、といって、限界まで減圧した空気を作り出したりしていた。
個人的領域においては、自分の興味の赴くまま、限界まで実験をしようという態度みたいなものがそこにはあった。
また、もう風化しているかもしれないが、以前にお笑い芸人を巨大なバルーンの上に乗せ、勢いよく弾ませた挙句、その芸人の腰に不治の負傷を負わせた、という事件があった。その実験の監修をしていたのが、でんじろうだった。
実際にそうだったのかもしれないが、責任はプロデューサーだか誰だかにあって、誰にどうするということまではでんじろうには責任は及ばないということに落ち着いたのだが、僕は、自分の中で、でんじろうならやりかねない、人を人としてではなくある何キログラムの重量であるという見方をしているのではないか、と思っていた。
AIの技術が発展して、いよいよ科学万能主義にとって必要な道具立てはそろった。反論なども含めて、よく回転する歯車の一つ一つに、人間が組み込まれて、何かは稼働してしまうだろうと思う。ただ、それが本当に正しいのか、どういう方向に進むのか、考えてみなければならないと、非常に無邪気な意見ではあると思うが、そう思うのである。