【読書録】西谷修『不死のワンダーランド』の総評
総評というと偉そうだけれども、今まで部分的にしか触れてこなかったこの本の全体について、少なくとも個人的に考えてみる必要を感じた。
とはいえ、この本の全体的なメッセージは明快だ。なんとなくの感触でしかないが、私たちは第二次世界大戦、そしてナチスドイツのユダヤ人殲滅作戦などを機に、生と死という価値が変わった。不死といえば聞こえがいいが、わたし自身として死ぬすべは奪われてしまった。私が生きている間に、いつの間にか、「私の生」と思っていたものが分解し、非個人となり、切り売りされている。そういう、現代の人間の生態というものを、たとえばハイデガーは嘆いたりしていたけれども、それを自らの自由として引き受け、積極的価値にしなければならない。
いわばそんな話だった。いわばそんな話ではあったが、やはり、個々の哲学者に対する読み込みが深まったというのが、今回この本を長い期間かけて読んで生まれた価値だった。特に、前回触れたけれども、ニーチェの貴族的、選民的、弱者をないがしろにするような言い分に対して、どういう態度をとればよいか、全然わからなかったのが、この本のほんの一ヶ所を読んだところで、すっと入ってきた。
また、これもごく一部ではあるが、フロイトの、精神医学の世界だけではない影響力、精神医学にかかわる人だけではなく、なぜ政治学、社会学にも関わる人が読まなければならないのだろうか、いや、読まなければならなかったということはないが、ドゥルーズなんかを読んでいると、いつの間にかそこがつながっているのである。なぜつながるのか。なぜ、に対して、それというのはね、とわかりやすく解説しているわけでもなかったけれども、何かつながりを得たような気にはなった。
自分の中で、低く評価していたブランショも、また距離を取りづらかったバタイユも、どう見ればいいかという視野の一つをもらった気分だ。しかしなんにしろ、ある文章、ある思想、金文字で輝く名前、これらを一面的に捉えてはいけないということ、その理解の仕方というのが一番難しいのだ、と思わされた。恣意的ではない読みの外側に位置するように、歴史の大きい流れが仄見えてくる。
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