【日記】音楽に反応するスピード

 素早く反応する、とはどんな事態なのだろうか。

 前に書いたかどうかわからない。中沢新一が、相当最近の部類に入ると思うのだが、文芸誌で連載している、テーマというかジャンルというかその辺はわからないけれども、読んだその箇所においては、チベット仏教の、修行法について書いていた文章があって、その中で、読んで解釈したかぎりでは、「草原に寝そべって青空と太陽を見るヨーガ」が、あるらしいのだが、その事が頭に事あるごとによぎっている。
 最近は、あまりよぎることはない。

 そのヨーガは、普通のヨーガ、苦行、というと苦しんでやっているわけではないだろうから違うので、その辺をニーチェは勘違いしているような気がしないでもない、彼は仏教徒などの行う修行全体を、生きるエネルギーを抑え込むものとしているような節がないではない気がする、いろんな書き方をしているから反証が出てしかるべきだとは思うが、そこまでニーチェを読み込んでいる人が、この空間にはおそらくいないだろう、ともかく傾向としてはそれがあって、だがヨーガというもの全体はむしろ生の力を増大するものとして、もっと言うと、身体を流れる精神とも物体とも言えない、チャクラだとか言ったりするけれども、抽象的なエネルギーを持った流体というイメージをして差し支えないと思うのだが、その位置と流量を微調整する、そういうものであると思う。
 中沢新一は、その「草原に寝そべって青空と太陽を見るヨーガ」について、この正式な呼び方は忘れてしまった、本を開けばわかるのだろうが簡単に開ける場所にないので省略する、とにかくそのヨーガの、実施している場面を見ることはおろか、その内実、そのヨーガで何をしているのかの表面的な説明を受けてさえ、なぜそれがヨーガにあたるのかは理解できない、と言っている。では何なのか。その宗教内で再解釈を施した、身体のシステム、もっと深く言うと胎児が胎内で大きくなって人間が形成されるそのプロセスをどう言語的に表現しているのかという点と、密接にかかわっているのだという。
 いちいち引き写せばそのままその連載を書くほどのことになるので、ごくごく簡略にまとめるけれども、人間には普通に機能する眼球の他に、エネルギーとして物を見る目が、額に二つ付いている。その眼からは、水晶の管が通っていて、胸の近くまで伸びているので、その受容体は胸にあるということになる。
 人間は、常にこの二種類の眼で物を見ているので、普段使っている眼は付随的なものでしかない。あるいは、両輪として別の機能を持ちながら外界を捉えるという目的を達している。
 で、空から絶えず流れて来るエネルギーを、その水晶の眼で見て受ける、流れを感じる、というのが、確かその修行の目的である、と書いていたような気がする。

 冒頭に書いた、素早く反応するというのは、ある音楽が発生したとして、それがものすごく優れたものであると、たいがいの人はわかるのはまず売れてからだし有名になってからだし誰かの評判を聞いてからでないと自分の意見を形成できない。だが、音楽を本当に感じることのできる人は、起きたその場で、何かを感じ取ることが出来る。で、それは、たとえば売れるまで待つとか、誰かの発言を待っているとか、一定の評価が既にあるとかいったことを待たずに起きる。ここで計測可能な時間を言っているのではないということは、わかってもらえると思うが、音楽に反応するスピードは、計測可能な時間で言っても、信じられないくらい早いといってもいいと思う、即時的に機能すると言っていいだろう、おそらく。そのようなこと、反応する受容体みたいなものを持つには、という点について考えあぐねている作家がいて、その人の言うことを考えていたのだが、その感じることと、今の人のおでこに本来はあるであろう水晶の管につながっている眼、これが同じものなのではないかと連想したからではないだろうか。
 書き始めた時は、そこまで考えていなかったので、わからない。

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