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【創作をやめようとした日】西川火尖

その時の私は失ったものを取り戻すのに夢中だった

もうじき二歳になる息子をベビーカーにのせて結社の句会に連れて行った。息子は途中から寝てくれて、久しぶりの句会はとても楽しかった。句会を楽しんだのはいつぶりだろうか。それからは度々子供をつれて句会に参加するようになった。私が子供と句会に行っている間は少なくとも妻は休むことができるし、結社も歓迎してくれていた。いいことだらけだった。

でも、慣れてくると欲が出てきた。次第に子供を妻に預け、子連れでは行けないような句会にも行くようになった。仕事帰りに句会に寄ることも覚えた。毎週土曜日の朝は俳句の勉強会にも参加した。原稿依頼もぽつぽつ来るようになった。その時の私は失ったものを取り戻すのに夢中だった。

私にはその覚悟ができなかった

子供が生まれる前は「職業威信スコア」の非常に低い仕事に従事していて、それを気にするあまり徐々に人と会うことができなくなっていった。ぎりぎり結社への投句は続けていたが、こんな状態ではどんな夢も描けなかった。

紆余曲折、というほどのこともないが転職して今の会社に移って、契約社員から再スタートを切った。パワハラでやめる社員の穴埋め要員だった。そこはリーダーにひたすら無能をなじられるという結構な地獄で、周りからは同情もされたが、仕事のできない奴ともみなされた。実際一向に仕事ができるようにならなくて、事情を把握した上司にも心配され、異動の話も出た。ちょうどそのころ妻の妊娠が判明した。

意外にもというか、子供が生まれてからはほとんどすべてが好転した。私は部署内の別の島に移され、嘘みたいに残業(パワハラ)がなくなった。一から仕事を覚えて、取引先から何度か表彰されもした。同期入社の仲間にかなり遅れたが、正社員にもなった。

子供も二歳近くになり、長い外出にも耐えられるようになった。そこでようやく私の頭の中に俳句をどうするかという考えが戻ってきた。家事の分担や育児のことを考えると創作活動に時間を割くことが難しいのはわかっていた。元々は版画家の妻は「私は子供を産むときにそれを覚悟した。それで幸せになると決めた」と言った。しかし私にはその覚悟ができなかった。「西川火尖」という格好つけ過ぎの俳号が、学生の気まぐれみたいな数年だけの活動で消えることに耐えられなかった。そして俳句の世間から忘れ去られた後でも名乗り続けるのが恥ずかしかった。そんなしょうもなさすぎる動機に、子供のできた今だからこそ、からっぽじゃだめなんじゃないかとか、わけわからない言い草で取り繕って、創作活動を再開した。

私が一番大変なときに手を離した奴の言うことは信用できない。

そこからは酷かった。もともと遅筆のため徹夜原稿が増え、土日の休みは妻に工面してもらった時間を充てても原稿の進みはとても悪かった。「今日は家族と一緒にいる」と言っても、「不機嫌になられると嫌だからまずは締切を終わらせて」と言われた。私は、家族より創作を取る後ろめたさと、自分勝手にも程があるが、彼女に疎外されているように感じて、気持ちが常に不安定で原稿どころではなかった。家庭内には当然修復不可能なほどの亀裂が入った。これ以上は書き続けることはできなかった。

関係を回復させたいと妻に伝えたとき「私が一番大変なときに手を離した奴の言うことは信用できない。」というのが彼女の答えだった。彼女の「幸せになると決めた」という言葉には私の存在も不可欠だったのだが、その期待をものの見事に全部裏切ったのも私だった。妻は決して創作をやめろとは言わなかった。ただ、あなたにとって家族は邪魔だよねと言った。
私はそれはもうリアルにのたうち回って、口汚く懇願した。彼女はあきれ果てながら絶望し、「ひとまず行動で示して」といった。

それから、一年ほどたって、

ここから先は現在進行形のお話になるので、今後どうなるかはわからないが、ひとまず終末時計の針を止めることには成功した。妻は彼女自身の創作を再開し、今度グループ展をすることになっている。息子は今日は私とトランポリンの施設で跳ねてきて、家に帰ったら疲れてすぐに寝てしまった。
「創作をやめようとした日」というテーマではこのことに触れるしかなくて、それにしてもあまりに立ち入った書き方をしたので、妻に確認を取ったところ、「随分薄めて書いてくれるよな」「その割に書きにくそうで、もっとズバズバ書けないの?まぁそれが本人という感じはするけど」「ま、いいんじゃないの」ということだった。読んでる途中にちょっと笑っていたがどの下りだったのだろうか。

<俳句>
春山のトンネルをゆく声の冷え/西川火尖 

#エッセイ #詩 #子育て #育児 #夫婦関係 #短歌 #俳句

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