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部活と私|1/8の練習の会場|西川火尖

こんばんは、段々蒸し暑くなってきましたね。順番代わって、6月からは西川火尖が一週目を担当します。 #Qai#note 、今月の共通テーマは #部活の思い出 、Qaiの仲間と部活時代の話をすることが結構あって、結構盛り上がるんですよね。きっと今月もみんな面白いので、ぜひご期待ください。

中学時代所属していたバスケ部のことを思い出すと、自分の輪郭がぐにゃりと曲がるような悔しさが湧く。練習について行けず、空気を読んだ意思疎通もできず、下手ならば下手なりの頑張りも見せられなかった私は、周りからはさぞ無気力で目障りに映っただろうし、実際に無気力であり惨めだった。
卑屈でありながら自尊心を捨てられなかった私は、同学年のキャプテン、スタメンたち、レギュラー、後輩たちの視線にびくびくしながらも、全く部員の数としては見られていないことを痛感していた。私に発言権はなく、一方的に人を怖がる透明人間だった。鶏が先か卵が先かは分からないが、このような透明人間に、気力もチームプレイも求めることなどできるはずもなく、たまに浴びせかけられる同級生の暴言を何でもないかのように聞き流すので精いっぱいだった。中学二年の秋にはそこにいること自体に耐えられなくなって、バスケ部をやめた。当時の私はこれを全て「自己責任」だと思っていた。「こんなことで辞めてどうする」「そんなことでは何をやっても続かない」という顧問の慰留の言葉を同級生からの暴言に耐えるのと同じやり方でやり過ごした。

バスケ部をやめた後は、卓球のクラブチームに通い直した。一時期、熱を上げていた卓球は、特別才能があったわけでも、好成績を収めたわけでもがなかったが、それでもバスケに比べれば数段以上、マシであった。私は自分がチームスポーツに向いていないことをもっと真剣に検討すべきだったのだ。そして、バスケ部員とは交流を断ったまま、地元の公立高校に進学した。そこには卓球部があった。

見学した男子卓球部には三年生が三人、二年生が二人いた。指導者の姿はなく、体育館の隅っこで他の部活に遠慮しながら練習していた。当時の卓球といえば他の運動部より下に見られるというか、運動部の数に入れてもらえないイメージがあり、この部もその例にしっかり入っていた。「他人より下に見られる、数に入れてもらえない」これは当時私を取り巻いていた状況そのものだった。もしかしたら卓球部にはそういう人間が仲間を求めて集まってくるのかもしれない。私がマイラケットを持参したことに気づいた先輩が練習に入れてくれた。卓球部の雉原部長だった。部長は私より少し強いくらいで、先輩は皆優しかった。

卓球部の置かれた環境は他の部と比べて明らかに差がつけられていた。月曜日は体育館の8分の1しか使えず、それ以外の曜日は半面が使えるものの1時間で他の部に明け渡さなければならなかった。かつては近畿大会にまで出場したことがある卓球部だったが、指導者が辞め、それ以来地位は低下した。そして人数が減るたびにずるずると練習場所も時間も奪われていったのだという。
三年生主体のチームで臨んだインターハイ予選は初戦敗退。この敗退で雉原部長たち三年生が引退した。部長は二年生の真辻くんが引き継いだ。これまで部員がほとんど集まらなかった卓球部であるが、今年だけは突然変異のように人が集まって、16人の新入部員がいた。その中でも特に紫蘇中のレギュラーがごっそり入部し、ひとつの強力なグループを作っていた。そのため三年生は私に一年代表という形で真辻くんを支えるよう采配した。
 
真辻部長の代になって、卓球部は完全に方向性を失った。いや、元々方向性などなかったのが、人数が急に増えることで、それでは立ち行かなくなったのだ。20名近い部員、2年生より上手い1年生、足りない卓球台、場所、時間、残念ながら真辻部長にはそれらを解決し皆をまとめる力がはっきりと足りなかった。当然、バスケ部でヘドロのような生き方しかしてこなかった私にも方途はなかった。そのうち経験者は経験者同士で練習を始め、あぶれた初心者は外に追いやられた。ぼろぼろと人が辞めていった。
私が嫌悪した「発言権のある強者しか好きなように振舞えない社会」は、教室で特権的地位を占めたバスケ部だけではなく、どちらかというと虐げられてきたこの卓球部でも同様に起こりうることを知った。ただし、それを強者の側という自覚で味わうのは初めてだった。

体育館系の運動部は月に一度「体育館調整」といって各部の部長や部長候補たちが昼休みに集まり、意見交換や休日の練習時間の割当てを行う会議がある。卓球部は長らく、女子部の部長が交渉にあたってきたが、新体制では女子部一年の志田さんと私が務めることになった。各部の部長候補と聞いて嫌な予感がしていたが、やはりバスケ部の代表は、私と同じ中学で当時のバスケ部部長、都市村だった。「卓球部って西川ぁ?」正直話しかけられることは予想していなかったが、向こうも私の出席に驚いたようだった。隣にいた女バスの子に「中学でバスケ部辞めたヘタレ」という声は聞こえた。
もはや大所帯となった卓球部だが、時間も場所も何一つ勝ち取れないまま体育館調整自体はすんなりと終わった。都市村は私に「今度は逃げんなよ」と言って教室に戻っていった。私はしばらく経って、猛烈に腹が立ってきた。「逃げるな?、、逃げるなって、、逃げるしかないような状況を笑って見てた奴が、俺に逃げるなっていう?なんで??」全部自己責任だと諦めていた。確かに上手くならなければ得られない信頼もあるだろう。努力しなければ保てない居場所もあるだろう。だから自己責任だと、悪いのは自分だと自分を納得させてきた。しかし、卓球部で強者の立場になって分かった。バスケ部部長だったお前は部長の責任を果たしたのか?
午後の授業では涙がつーつーつーつー出てしまって顔を上げることができなかった。俺は多分、ずっと悔しかったんだってやっとわかった。先ほどの問いにも都市村は「やる気のない弱い奴を辞めさせるのも部長の責任」くらいに思うだろう。同じように思う強者は他にもたくさんいるかもしれない。でも、俺はそいつらとは違う部長になる。

私は卓球部全員を集めて、思っていることを全部話した。卓球部の地位を向上させよう。体育館の8分の1、放課後の1時間しか練習できない現状を変えよう。試合に勝ちまくって得られる尊厳ってのがある。勝とう。未経験者を切り捨てるような練習ではなく、全員が楽しんで実力を伸ばせる部に変えていこう。誰からもバカにされず、誰もバカにしない、本当に強いチームを目指そうというようなことを言った。驚いたことに途中から皆同じようなことを考えていたことが分かった。ただ、私たちは一様に「どうすればいいか」をこのときまで話し合えなかったのだ。

それからの日々は本当に充実していた。練習は厳格なローテーション制にし、初心者経験者関係なく話し合い、腕を磨いた。別れて練習していた女子部とも合流した。カップルが何組かできた。私と新レギュラー陣、卓球にのめり込んできた何人かは練習後、クラブチームに通うようになった。そこで最新の練習方法を、部の練習メニューとしてフィードバックした。部に指導者がいない分、私たちはよく考え、仕組みを自分たちで作り上げていった。クラブのない日はひたすら走った。レギュラーを決めるための完全実力順位制、部内ランキング戦を始めた。練習試合をたくさん組んだ。気づけばとっくにバスケ部の実績を追い抜いていた。

そして、全員で強くなろうと決めた日から二年、チームは京都府予選を突破し、近畿大会に出場した。

【俳句】
細胞の全個の反射全個雷  西川火尖 「マンガの友vol.2 インターハイ予選」より

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卓球部での経験は自分の行動パターンにもかなり大きな影響を与えていて、みんなで社会を作ることについて深く考えるようになった。社会学部や法学部を目指すようになったのもこの経験が大きかった。政治も子連れ句会も、差別も、当事者以外にはなり得ないと知ったのも、卓球部を自分たちの望む方向に変えてこれたという自負があるからだと思う。
この話は概ね事実ベースだが、思い出せないところが結構ありいっそ興が乗って小説風に作ってしまった箇所がいくつかあるけどいいよね。

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