東京裁判が3年にも長引いたのは何故か?
12月24日といえば、東條英機が前日に処刑されて、岸信介が釈放された日である。前者は天皇陛下に忠義を尽くした「戸締まり」の人、後者は「赤化を止めるのは拙者におまかせください」とCIAに詰め寄った「新しい扉開き」の人であり、ともに当方の心を抉る昭和の傑物である。
私は中学・高校と靖国神社が近かったため、街宣車やビラ配りのうるさい連中を見てきたため、右も左も嫌いだ。だからといって反戦でも好戦でもないし、とにかく当時の欧米列強が嫌いなのである。いや今もかもしれない。
靖国神社にはパール判事の像がある。
極東軍事裁判をもっとも批判した判事である。
最近、インドが英国のGDPを超えたそうだが、そのニュースを聞いて、思わずパール判事を思い出した。
ところで、ずいぶん昔から、なぜ戦勝国側の一方的な軍事裁判が長いことに疑問をいだいていた。ニュルンベルク裁判は1年以内に終わっているのに東京裁判は3年程かかっている。
判事は全員戦勝国である。だったら横綱相撲なはずである。
とはいえ、パール判事ほど高潔ではなくても、後年の学者たちの餌食にならないように細心を払った判事もいただろう。
後には、米ソの対立が予期されており、各国の思惑が一枚岩ではなかったのは想像できる。でも日本の占領統治は事実上、米国であり、マッカーサー元帥が呼んだ判事たちである。どうも長引いたのが解せない。
さっそく、チャットGPTに聞いてみた。
「連合国間の利害対立」というものの、どういう利害対立があったのかを知りたいのだが、お茶を濁したものである。
というわけで、私が仮説を出してみたいと思う。
それは「独立運動している国を刺激しないこと」だったのではないか?
あたりにも一方的で拙速な裁判であると、彼らのステークフォルダーたちに不満がたまるからだ。
ただ、結論として、1960年代までに、列強の国々はほとんどの植民地を放棄した。日本は戦争には負けたが、世界中の独立運動には勝った。
植民地放棄は、東京裁判がかえって災いしたのかもしれない。
なぜなら日本を憎からず思う独立運動家たちがいたからだ。
天皇を処刑しないことで「日本人が暴動を起こすこと」を回避したつもりの連勝国であったが、東條英機たちを処刑しないことで「独立運動」を回避することはしなかった。そんな風に思える。
戦勝国で唯一、領土的損失がなかったのはアメリカ合衆国である。
そもそも植民地を持っていないわけで、欧州列強と考え方が違う。
アメリカの一方的な裁判にせず、むしろ奴らをかませることで、勝手に奴らの中で揉める。フランス革命以降、なぜか奴らは小さな声に耳を傾け、平等だ民主だと騒ぎ立てるが、ソ連の革命と根っこは同じである。
それでも、戦後は、「アメリカだけ無傷で済んだ」というわけにはならなかったのが歴史の皮肉で、朝鮮戦争、ベトナム戦争など、いったい奴らは、何度の戦争をしたのだろうか?
答えは風の中にあるというが、いいかげんに見つけてほしいものだ。
さて、東京裁判に戻る。
連合国は、「A級戦犯」つまり「平和に対する戦争責任」という概念を持ち出して、軍事裁判の前例を作ったことで、その後に起こった戦争を未然に回避したのであろうか?
処刑される7人は、この茶番をわかっていながら。
「これが世界平和に繋がるのであれば本望である」といって散った。
こういうところが日本人らしくて、先輩たちを誇りに思う。
あの世でも、東條英機と石原莞爾は仲が悪いのだろう(笑)