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男が『二人一組になってください』を読んだ感想
先日木爾チレン先生の『二人一組になってください』を読んだので、備忘録の意を兼ねた感想を書きます。ネタバレ注意。
男子から見たカースト制度
カーストと言えばヒンドゥー教の身分制度だが、こと学校においては生徒の人気や影響力によって生徒がランク付けされたもの、いわゆる「スクールカースト」が存在する。
もちろん、これは先生が公式に発表するわけでもなく、生徒達の間で知らず知らずのうちに自己形成されていくものである。
というのが、男の自分における「スクールカースト」の認識だったのだがどうやら違うらしい。男子が思っている以上に、女子のスクールカースト制度は中々に厳格で学校生活を送る上での根底たり得るものなのだそうだ。
実際、中学高校と私は「一軍、二軍」といったような言葉を知らなかった(スポ根漫画でしか聞いたことなかった)し、そのような男子が多かったと思う。私がそのような格付けの言葉があることを知ったのは、大学生の時に彼女に教えて貰ったからだ。
じゃあ、「男子にはそういった概念が無くみんなが仲良しなのか?」と問われればもちろんそれも違う。男子の中にも面白かったり運動が出来たり頭が良かったりと、周りに人が集まる様な人もいれば、友人が少なく自分の世界に没入しているような人も居て、そこには漠然とした上下の感覚があったように思う。
ただそれは身分としての上下ではなく、単純に「目立つか目立たないか」の基準が大きかったように思う。なので、痛すぎる奴や静か過ぎて逆に浮いている人がカーストの中で下に位置するのかと思いきや、意外とそうではない。真に男子から避けられる人は話がつまらく勉強にもならないような「つまらない」人だったりする。男は面白い陰キャよりもつまらない陽キャに厳しいのだ。
しかし、女子のように「一軍、二軍」というような言葉での格付けをする文化は男子の中には無かった。そのおかげか、男子にとってスクールカーストは「住む世界が違う」というようなものでなく、「趣味嗜好が違うだけ」といった棲み分け程度の認識でしか無かったと思う。少なくとも自分の通ってきた学校ではそうだった。
だからこそ、女子の「スクールカースト」がここまで明確な線引きがされていること、そして男子のあずかり知らぬところでこのような共通認識が育まれているのだという事に今更戦慄している。
デスゲームとしての内容について
私がこの本を手に取ったのは、「女生徒間でのデスゲーム」に新鮮味を感じたからである。
デスゲームといえば、暴力の伴わない殺し合いであり、頭脳や駆け引きによって繰り広げられるバトルが印象的である。しかし、同じ学校の同じクラスの女生徒のみのデスゲームともなると、おそらく頭脳の差で出し抜くといったことは起こりづらいだろうと思った。そこで代わりになるのが「スクールカースト」というわけだ。最初のルールのところまで軽く読んで「うわぁ、これはドロドロしたやつになるぞ。面白そう。」と思って購入させて頂いた。
デスゲーム系は割かし好きだが、ファンとかマニアとかという程では無い。そのため大した知見を持っているわけでもないが、2つ気になった点があったので言及したい。
①whyが中心でhowに意味は無い
このデスゲームにおいて死が確定した人は、胸元に着けられたコサージュに殺されることになる。殺され方は人によって異なり、焼かれるものや爆ぜるもの、毒殺や窒息など様々である。嫌な奴ほど苦しむ死に方をするので、見ていてスカッとする一方で、基準がよく分からないのは気になった。
作中でも悲惨な死に方とされていた中野勝音と大神リサ。勝音はコサージュから得体の知れない虫が発生し、口に入って窒息。リサは爪が食い込むほどに自分で自分の首を絞めて窒息する。彼女らはあまり良い人間では無かったので、苦しむ死に方をしたのだろうが、他の一般生徒は火柱が上がって焼け死んだり、臓物が飛び散るほどの爆死が多かった。
「いやこれ爆死の方が嫌じゃない?」と私は思った。感性は人それぞれなのでなんとも言えないが、いじめっ子の死を悲惨なものに見せるだけなら、傍観者程度の死はもう少し優しくしてあげても良かったのではないかと感じる。それとも、いじめの見て見ぬ振りはそれだけで爆死に値するのだろうか。作者様の意図が読めなかった。
そもそも、どのような仕組みで殺されているのか、誰がこんなものを作っているのかについての記述が全く無いことも気になった。
それは作者様が書きたかったことが「スクールカーストのドロドロ」と「いじめに対する啓発」が主だったからだと思われる。そのため、why(何故するのか)ばかり焦点が当てられ、how(誰がどうやってするのか)は終始不明であった。
他にも死体まみれの教室で1時間という限られたタイムリミットの中冷静で居られるのかなど気になるところはあったが、面白かったので、howはそれほど重要じゃないのかもしれないと感じた。
②誰が死ぬのか分かってしまう
この作品は明確に決まっている訳では無いが、1章ごとに話者の視点が変わる。そして、大体そいつが死ぬ。今まで名前しか出てこなかったキャラクターが突然死亡フラグのように自分語りを始め出すので、「あっ、今からこいつが死ぬんだな」と分かる。
デスゲームにおいて、誰が死に誰が生きるのかというのはメイントピックと言っても良いだろう。実際デスゲームを読む時に一周目と二周目で読後感が違うのはあるあるだ。
そのため、このシステムは致命的であると最初は思った。だが、読み進めていくうちにその印象は変わることになる。
私がこの本で1番ドキドキするのは章の区切りが切り替わる瞬間、要するに誰の視点になるのかが分かるタイミングになった。名前を見る度に冒頭にあるカースト表と照らし合わせて「えっ、なんでこいつが死ぬの!?」と分かった状態で読み進めていくのが段々クセになっていくのだ。もちろん、話者が死ぬのはあくまで傾向であるため裏切りもある。それも面白い。
総括
おそらくこの小説は男が読むのと女が読むので大きく感想が変わってくるのではないかと思う。私自身、この小説は面白かったが十分に楽しみきっていないと感じている。というのも、私が男である以上、死にゆく女生徒のバックグラウンドに最大限の共感が置けないからである。読んでいるとなんとなく、「死んで欲しい人、生きていて欲しい人」が出てくる。翠やいのり、桜雪や歌などはあまり死んで欲しくない人達だったなぁと思っているが、それも人によって違うのだろうと思う。
ぜひ他の人の感想が聞きたいなと思った。