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『孤独のグルメ』っぽい昼

土曜日の朝、仕事のためスーツに身を包み玄関を出る。

今日はお客さんと会う日だ。

客先までは片道1時間程度。
電車に乗り、喧騒を消すように耳にイヤホンを挿す。


ドラマ版『孤独のグルメ』が好きで、電車の中でもよく観るのだが、これがいけなかった。


昼過ぎに客先を出て、まだ少し時間に余裕がある。
その瞬間にふと、自分が空腹であることに気がつく。


そうなってしまうと、私の中の孤独のグルメが、いや、井之頭五郎が、いいや、松重豊が暴れ出す。

格闘映画を観たあとに自分が強くなった気になる感覚や、恋愛映画を観たあとに好きな人に告白してみてやろうかと思う気持ちに似ている。

『孤独のグルメ』を観たあとは、普段なら決して一人で入らないようなご飯屋さんを探してしまうのである。


(いかん…腹が減った。)


頭の中で井之頭五郎のセリフが松重豊の声で再生される。

(今俺は…何が食べたいんだ?何の口なんだ…?)


完全に中華の口だ。すでに決まっている。

完全に中華の口なのだが、私の中に刷り込まれてしまった松重豊が、選択肢を与えてくる。やめてくれ。

大通りから脇道に入り、何度か通ったことのある道を歩く。
この先に以前から気になっていた中華料理屋がある。
知っている、知っているのだ。しかしまたしても松重豊が襲ってくる。


(こんなところに中華屋、あったんだなぁ。山吹色のテント屋根の下に、赤いのれん。そこに「中華料理」の4文字…。いかにも老舗という雰囲気。入るのに少し勇気がいる面構えではあるが…、積み重ねてきた年数に狂いなし…。よし、ここにしよう。)


…いや何をだらだら考えているんだ早く入れ。
執拗に松重豊が出てしまう。

のれんを分けて、ガラス窓がはめられたアルミの扉に手をかける。
「カラカラカラ」と音を立てて横に流れるスライドドア。

「いらっしゃい」
「いらっしゃいませ〜こちらどぉぞ〜」

寡黙そうなお父さんと、気さくなお母さんが良いコントラストになっている。

テーブルが3つと、カウンターが4席ほどの小さな店。
土曜日の昼時に他のお客さんが誰もいないのが心配にはなったものの、大丈夫。私は今、孤独のグルメの真っ只中なのだ。松重豊がポジティブに変換してくれる。

(裏通りの隠れた中華屋…敷居は高いが入ってしまえばなんてことはない。店内の雰囲気もいいなぁ。)


カウンターに座り、ひとしきり周りを見渡す。
もうここからは当然のように松重豊が出てくる。

(おぉ〜、メニューは壁に貼られた、紙に手書きのものしかないのかぁ。昔ながらのこの感じ、良い。)

(いろいろあるなぁ…単品がズラッと。そして……ん?「肉野菜炒めライス」に「麻婆豆腐ライス」…この「ライス」って書き方あんまり見ないなぁ。「定食」ならよくあるんだけど…)

(しかし悩ませてくるぞ…。麻婆豆腐も捨てがたいが、ピーマン肉炒めも…。)


我に帰り、松重豊を一度追い出す。

「すみません、ピーマン肉炒めライス、ください」


ドラマならここでいろいろ頼んで食べたいものを全部食べているが、さすがにそんなにはいらない。知らん店だし。うん。冷静になろう。


お母さんが野菜を切り、お父さんが鍋を振る。
連携プレーが綺麗だ。

注文してから料理が運ばれてくる間に仕事のことを振り返る……のは、井之頭五郎。
私はスマホをいじいじ。


しばらくすると綺麗に盛り付けられた「ピーマン肉炒めライス」が運ばれてきた。


(なんだ、スープも漬け物も付いてるじゃないか。ますます「〇〇定食」の方が馴染みがあるが…いや、ここでは「〇〇ライス」。店には店のルールがある…。)


「いただきます」


(肉とピーマンが輝いている…。経験を積み重ねてきたお父さんだからこそ成せる技…。積み重ねてきた見た目、積み重ねてきた味。さぁどうだ……なるほど、そう来たか…!
濃い、濃い、でも、好き。米が進む。「ピーマン肉炒め定食」ではなく「ピーマン肉炒めライス」というネーミングにも頷ける。米を食うための肉。米食い肉。うん、うまい。)


しばらく後、扉が開いて作業服を着たおっちゃんが入ってきた。
私と一つ席を空け、カウンターに座った。


「…麻婆豆腐ライスちょーだい」


気になっていたものを、他のお客さんが頼む。
これほど「孤独のグルメっぽい展開」があるだろうか。


しかし現実はうまくいかず、麻婆豆腐ライスを見る前に、私は食べ終わってしまった。
少し悔しいが、店を出る。


ただ一人でご飯を食べただけだが、松重豊のおかげで少し楽しかった。

(…今度は麻婆豆腐、確かめにこよう。)

ゴロー♪、ゴロー♪、ゴロー♪、イッノッカシラッ♪フゥ-

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