【短編】渇き
終電の一本前、仕事で憔悴しきった私を自宅の最寄り駅まで運ぶ電車が、ホームを煌々と照らしながら入ってきた。
伸びる人影はそれほど多くはなく、こちらもまた疲労を肩に担いだサラリーマンが幾人と、それをさらに強調するかのように酒の臭いをまとった騒がしい若者が少し。
私にもあんな時期があったことを、あたかも遠い過去のように思い出しながら電車が止まるのを待つ。
彼らとの年齢の方が近いはずなのに、中年のサラリーマンを見ている方が今は親近感が湧く。
学生の頃、「はやく社会人になりたい」と曇りの無い目で見ていたはずの未来はこんなだったのだろうか。
電車が止まり扉が開く。どこかの駅からか運ばれてきた人たちが、淀んだ空気を身にまといながらそれぞれの時間を消費している。
自宅の最寄り駅までは6駅。席はひとつ空いていたが、電車の揺れに身体を預けて寝ている人の隣に座るのは憚られた。
私は仕方なく、ドアの前に立つことにした。
車窓を流れる夜の街は、まばらに電気が付いており、その儚い光にさえも存在感を感じた。
過ぎ去る外の風景を追いかけていたはずが、いつの間にか窓に映る自分の顔を見つめていた。
今日は疲れた。
自分の顔を見て改めてそう感じた。
学生時代から活発だった私は、事務職は性に合わないと思い、自らの希望で営業職を選んだ。
男性社会で揉まれながら、会社と顧客に板挟みにされ、なんとか5年が経った。
いわゆる大手企業に就職した私は、5年目でも当然平社員で、上司からのプレッシャーと後輩たちからの期待を背負い、その重みに今日、耐えられなくなってしまった。
何があったわけでは無い。これまで何とか、虚勢を張りながら誤魔化して抱えられていた負の蓄積が、ただの今日、私の腕では抱えきれなくなったのだ。
仕事が全く手に付かず、またそんな時に限って客先からのクレーム対応に追われた。
これほど神経をすり減らしてまでする仕事だろうか。
あの頃の自分に今の姿を見せられるだろうか。
茫漠としたどす黒い不安は、勢いよく私を夜に溶かしてゆく。
気が付けば4駅が過ぎており、席もまばらに空き始めていたが座る気にはなれなかった。
パンプスで締め付けられた脚はジンジンと痺れているが、このまま座ると立ち上がれないことは想像に容易かった。
そのまま私は扉の前で立ち尽くし、残り2駅を過ごした。
自宅の最寄り駅はこじんまりとした小さな駅で、駅前の大通りから一本外れると街灯と古い自動販売機の光だけになってしまう。
その道を歩いて自宅へ向かう。
家に帰れば交際を始めて3年になる恋人がいる。
「恋人」と呼べるほどもう熱はないが、お互いに認め、支え合っている実感は十二分にある。
今日の夕方頃に「遅くなる」とだけ送ったメッセージに対して「わかった」とだけ返ってきた。
その1時間後に「お疲れ様。ご飯作っといた。先に寝てると思う」と、冷静な彼の優しさが身に染みる。
「ありがとう」と送ったあと、しばらくしてから「いつも」と付け加えた。
マンションの前まで着くと、部屋の電気が消えていた。
エレベーターで4階を押し、自宅の鍵を鞄から取り出す。
寝ているであろう彼を起こさないように、ゆっくりと鍵を回し、またゆっくりと扉を開ける。そしてできるだけ音を立てないように扉を閉め、ようやく靴を脱ぐ。
電気をつけると彼に悪いと思い、スマートフォンのライトを手で少し隠しながら辺りを照らした。
鞄を置いて、静かに手を洗う。
リビングのテーブルの上には、彼の作ったご飯とともに、「音、気にしなくて良いからね」と書かれた置き手紙があった。
本当に気の利く人なんだなと思いながら、そっと彼のいる寝室を覗く。
仰向けになり安らかに眠る彼の姿は、ボロボロになった今の私とはあまりにも対照的で、彼のその美しさに心が静かに動くのを感じた。
スマートフォンのライトを消し、窓から差し込む月明かりを頼りに彼が眠るベッドの縁に手を置く。
ゆっくりと彼の顔に手を伸ばすと、寝息がかかり、さらに心臓が脈打つ速度が早くなったのを感じた。
彼の下唇を、人差し指で優しくなぞる。
くすぐったかったのだろうか、少し眉間にシワを寄せながら、下の歯で噛むように器用に唇を掻いている。
その動きを遮るように、リップもとっくに落ち乾いた私の唇を彼のそれに重ねた。
彼とは同じベッドで毎晩寝ているが、どちらかが先に寝るので最近では色事まで至らない。
それに不満はなかったし、もう頻繁にそんなことをする間柄でもなかった。
しかし今日は、ますます早くなる私の鼓動を抑えることができずにいる。
ふと、美しくベッドに沈む彼が憎らしく感じた。
私自身への劣等感を助長するかの如く、月光に照らされる彼はあまりにも可憐だった。
深まる愛と憎悪は、私を欲情させるには十分だった。
それは全身を駆け巡り、そして下半身を熱くさせているのを感じた。
スーツのスカートを捲り上げ、伸ばした指先でゆっくりと恥部をなぞる。
たったのそれだけで、頭が真っ白になり、吐息は荒く、身体は激しく反応した。
布を一枚隔てただけでは、その上からでもハッキリとわかるほどに、私のもうひとつの唇はぐっしょりと濡れていた。
ベッドの横に座り込み、彼の顔をもう一度眺める。
やはり綺麗なその横顔に腹が立つ。
彼の優しさが、冷静さが、美しさが、全て今の私とは正反対なのだ。
一心不乱に彼のパジャマに手をかけ、下着もろとも剥ぎ取った。
うなだれる彼の尊厳部を数回上下に躍動させ、ゆっくりと口に含む。
ここまでしてもまだ目を覚さない彼を見て、もっと荒々しく帰ってきてやれば良かったとさえ思う。
しばらくすると、欲棒は唾液に絡みつきながら、私の口の中で無様にも隆起し、同時に彼の寝息が荒くなるのを感じた。
意識が戻り止められてはいけないと思い、私は急いで下着だけを脱いだ。スーツが汚れるのはこの際厭わなかった。
花びらから滴る朝露のように愛液を垂らす私のそれに、彼の轟々たる猛りを迎え入れるのに時間は要らなかった。
眠る彼の上にまたがり、私は腰を揺する。
声を殺す気は毛頭なかった。情けなく漏れ出す喘ぎ声と、「ギッ、ギッ」と軋むベッドフレームの音が薄暗い部屋に響く。
流石に目を覚ました彼は、腕をするりと私の腰へ回し、暴れる私の身体を支えた。
そして段々と彼の動きに合わせベッドが音を立てる。
私は下から突き上げてくる彼の腰に、ただひたすらに身を任せるしか術がなく、大きくなる自らの喘ぎ声でさらに快楽に溺れた。
気が付けば、彼の上で果てていた。
どれくらいの時間そうしていただろうか。
実際はほんの数分間に過ぎないはずだが、脳が溶けた私には、正確な時間を把握できるはずがなかった。
彼に覆い被さるように倒れ込み、呼吸が上手く出来ず身体は小刻みに震えた。
その態勢を崩すことなく、私の髪の毛を手で梳かす彼は「おかえり」とだけ口にし、それ以上は何も言わなかった。
その瞬間、複雑に絡まっていた私の感情は、ピンと張り、そして切れた。
それが彼から与えられた安堵感だと認識するころには、私はこぼれ落ちる涙を止めることができず声を上げて泣いていた。
会社のロッカーに詰め込んでいたはずの倦怠感を、実態のない自分への強烈な劣等感を、ただ彼に乱暴にぶつけ発散してしまったことを謝罪した。
彼はそれにも何も言わずに、怒らずに、私の髪の毛を梳かし続けてくれた。
部屋に差し込む淡い月明かりは、私の頬を伝う涙の輪郭をくっきりと浮かび上がらせていたに違いない。