拒絶~「保つ」ための受容と拒絶~⑤
3.食べ物を拒むこと
人は食べることが生きるために必要だと理解していながらも、時に食べ物に対し嫌悪感を示し遠ざけようとすることがある。
私たちは食べるということに関しては理解をしているつもりでも、その反対の「食べない」ということについてはあまり考えない傾向にある。
よって、食という行為は、最も身近な行為の1つでありながら、知らないことも多いものであるといえるだろう。
そういったことを考えた際、食という当たり前のものが、当たり前ではなくなるのではないだろうか。
現代社会では、拒食症、過食症といった言葉があるように、食べ過ぎることも食べないこともよくないとされる。
これは現代の人々が見た目を過度に気にするのに加え、精神的負担を感じやすい環境におかれていることが関連していると考える。
また、体に悪い食べ物はよくないとされ、健康に良いとされる食べ物を選ぶのがよいとされる一方で、落ち込んだ際、ストレスがたまった際には、人は暴飲暴食をすることがある。
そして健康に悪い食べ物も時によって好まれる傾向にあるといえる。
このように、食べるということは、日常生活の一部としてすることというだけではなく、自分の精神状態並びに社会の状況など、あらゆるものと結び付けて考えることができるのではないだろうか。
そのあらゆるものが、今回取り上げていく死についての考察を深めることにつながると考える。
4.食と死とを結び付けて考えるということ
私たちの頭の中には、食と死は密接に関わっており、無意識のうちに結び付けて考えているということをここまで述べてきた。
しかし現代社会では、生きることと食べることは関連付けて取り上げられるのに対し、死ぬことと食べることを結び付けて考えられることはあまりない。
これは、死ぬことが恐ろしいもの、遠ざけるべきものとして人々に認識されているからではないだろうか。
では、この2つはどのような関係性があるのかをここでは考えていく。
私たちは普段ものを食べる際に死を意識することはほとんどないと考える。
しかし、食事という行為は、ある死んだものを自分の体内に栄養として取り込むということを意味する。
肉、魚、野菜などは、生きて成長したのちやその途中で殺すことやもぎ取られ、人間の食べやすいような形にされて私たちの元に食べ物として提供される。
スーパーなどに行けば食品が並んでいるが、それは死んだものの集まりであるといえるだろう。
また、生き物のいない環境では人間は食にありつくことができず、生き物を一切殺さないで私たちが生き延びるのは困難である。
生きるためには他の生き物を殺し続けなければならない。
しかし私たちはそのことを意識せずに買い物をし、調理をして食べることをする。
よって、現代社会の中で、私たちは、自分たちが他の生物を犠牲にして生きているということに目を向けないで生活をしているという傾向があるといえると考える。
言い換えれば、人間は誰しもが他の命を自分のために殺しながら生き続けているということである。
また、食べるということは死を取り込むということであるが、そうしてもその死んだ対象について知ることはできない。
例えば豚肉を食べたとしても、その豚がどのように生きていたのか、どのように死んでいったのかを知ることはできない。
私たちは結局死を知らないまま、意識しないまま食事をしている。これらのことから、食べることと死ぬことは密接な関係にあるということがいえると考える。