拒絶~「保つ」ための受容と拒絶~⑬

第4節 関係における役割から考える死

 今まで人間が産まれて一番に信頼関係を築く対象である家族について主に触れてきたが、私たちは家族以外においても、さまざまな場面によって人に対して拒絶や受容をする。

このようなことが起きる背景にはどういった要因があるのだろうか。

また、なぜ拒絶や受容は生きるために必要であるのだろうか。

そしてそれはどのように死と関わるのだろうか。

ここでは、より広い視点から拒絶と受容についての考察を通して死について深く考えていく。


1.人との関係とそれにおける受容
 第2節でカフカの「変身」を通して死について述べてきた。

ザムザ一家はグレゴールが死んだことを受け入れながらもそこに夢や希望と呼べるものを見出したが、これは第2節で述べた私たちの食についても同じようにいえるのではないだろうか。

私たちはものを殺して食べることを知りながらも、生きるためにそれをやめようとはしない。

そうすることで自分の生命を保ち、毎日を過ごし、また新しい命を誕生させる。

このことを含め私たちは日々同じようなことの繰り返しをしているように感じられるが、あるものを殺すということはそのものやその周囲の関係を変化させるということである。

そしてそのものと自分は切り離せない関係であるため、自分自身も変化しているといえる。

言い換えれば、あるものを保つためには、他者や物など、自分に関わる別のものを変化させる必要があるということである。

そしてそれは、自分自身の変化にもつながるものだと考える。

私たちは、家族だけではなく、あらゆる人々、自然や動物との切り離せない関係によって生かされ、生きている。

しかし人々はそこに区分けをし、「役割」といったものを持つことによって特定の人以外との関係は切り離そうとする。

学校では生徒や先生、職場では上司と部下、といった具合である。

そしてこれらの役割は代替可能なものとして扱われ、誰か1人がいなくなっても誰かがそこを補い世界は変わらず続いていくと捉えられている。

仕事や勉強といったものはやるべきことがマニュアル化されており、同じ内容をこなすことができればそれをできるのは誰でもよいとされている。

では、果たして会社や学校といったものは誰がそこにいても同じであり、一人いなくなったところで何も変わらないのだろうか。

 マニュアル化されている役割は、こなすことができれば秩序は保たれ、人でも機械でも何でもよいとされる。

しかしそこには人が介入する限り「関係性」というものがあり、それは切り離せないものであると考える。

例えば仕事や部活を誰かが辞めたとしたらそこにあった人と人との信頼関係を保つことは不可能となり、徐々にそこに関わる全ての人、もしくはそれ以外の人々にも影響をきたすことになるだろう。

例え代わりの人が現れたとしても、一から信頼関係を築くのは簡単ではない。

そしてこのようなことは、結果的に決められた仕事や活動内容そのものにも影響をきたすことになるのではないだろうか。

 しかし、これらを混同してしまうと私たちは全ての人との関係を気にかけながら生活をしなければならなくなる。

そのため、ある程度切り離して考えることが暗黙の了解となっているのではないかと考える。

私たちが口にする食べ物についても、同じことがいえるだろう。

食べ物として死んでゆく生き物のことを考えていたら、私たちは全てのものを食べられなくなってしまうからだ。

 関係を保つためには同じ人間並びに生き物が同じ役割をすることが求められるとここまでで述べたが、一方で、人間並びに生命との関わりにおいて、変化しないものはない。

私たちは毎日違うものを食べ、学校では毎年教師と生徒が入れ替わり、仕事でも日々違う人間と関わらなければならない。

その際に違いを受け入れられず今までの関係性に捉われてしまうと、意見の食い違いなどを通して問題が発生し、私たちは互いに拒絶しあうようになる。

そのため、関係性は日々変化することを受け入れ、それに対してどう向き合うかを人間は考える必要があるのではないだろうか。

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