Off the Grid: Re-Assembling Domestic Life / フィリップ・バニーニ
めんどくさそう。僕がオフグリッド生活に抱いていたイメージだ。そして、この本を読んだ今も、印象は変わっていない。やっぱりめんどくさそうだ。
2011年から2013年にかけて、約200人のカナディアン・オフグリッダーの暮らしを、人類学者とフォトジャーナリストが調査したこの本。ちなみに、オフグリッドとは、電気や天然ガスの供給網から切り離された建物(一般的には住宅だが、町全体がそうである場合もある)の特性のことである。
日本だと、2009年、太陽光余剰電力を皮切りに始まったFIT(再生エネルギーの固定価格買取制度)あたりからだろうか、東日本大震災もあり2010年代前半から再生エネルギーへの注目度は高まっている(Googleトレンド)。しかし僕と同じように、多くの人が、現状を知らないんじゃないだろうか。例えば、エネルギー供給構成にて、原子力は約3%、残りの85%は化石燃料に頼っていて、しかも多くは輸入だ。(エネルギー自給率は12%)
そんな関わり方にうっすら危機感を覚えてるさなか、この本に出会った。冒頭書いたように、僕はオフグリッドに飛び込むことはない。ただこの本を読む中で、こう捉えると面白そうと思った点があった。それが「切り離すことによる文化の再制作」だ。
場所への愛
結論に向かう前に、本書のユニークな点を追ってみたい。最初に登場するのはバンクーバーから1時間、オフグリッドで有名なラスケティ島の暮らしだ。
1平方キロメートルあたり4.8人という人口密度は、この島で多くのオフグリッドを可能にした。持続可能な地下水の汲み上げ、丘陵地の小川を利用した小水力発電、小さな農作物の栽培、廃棄物のクリーンで控えめな処理、再生可能な速度での薪の収集などが可能である。
本書はこういった人たちが登場しながら、著者たちが「分かるが、なんでこんなにめんどくさいことするんだ?…」と自問自答しながら進んでいく。
ここで見えてきたのが、ほぼ全員に共通する場所への愛だ。著者がremoveと呼ぶ、画一化、貪欲、持続不可能、怠惰、汚染(物質的、象徴的)、無責任など、世の中を腐敗させるあらゆるものから自分を切り離す、という思いを起点に、彼らは憧れの風景に移住する。
ここでひとつ疑問があった。移住してもオフグリッドにする必要はないはずだ。しかし調査で見えてきたのは、多くの人が「仕方なく」オフグリッダーになったという事実だ。個人的にはこれがしっくりきた。意図的にできる人は、資金や資源が潤沢か、仕事のためなのではと思っていたからだ。
タスクがつくる風景
しかし、入り口が妥協であっても、オフグリッドの暮らしは創造性を掻き立て、ある種の美しさを伴うようになる。それは牧歌的なものではない。
排泄物を捨て、汚れたトイレットペーパー以外は何も落とさず、容器におがくず、ピートモス、灰などを入れ、蓋をする。
凍結や腐敗から守ってくれる天然の冷蔵庫であるルートセラーから、トルティーヤ・ラップをつくるためのビーツと玉ねぎを出す。
電気器具がなく、プロパンや薪の使用を避けるため、ビートパテを2枚の大きな天板に並べ、外に持ち出してソーラーオーブンで焼く。
オフグリッダーの暮らしを見て、著者たちは勘違いに気づく。彼らは、瞑想的な禁欲主義者でなく、修行僧のようなマゾヒストでもない。時間に対する向き合い方は、いわゆる速度の減少を表すスローライフとは違うのだ。
つまり、季節の移り変わりや雲や太陽の動きに合わせて、注意力、判断力、創造力、技術、そして体力を駆使して、その場にあるものを利用し、問題を解決しながら、戦略的に活動しなければならないのだ。それを著者は好機主義者(opportunistic)と表現する。
このような活動が場所を構成し、特殊で創造的な風景をつくっていく。インゴルドが指摘したように「場所はそこに住む人々の実践の結果であり、活動の流れの中で、周囲との実践的な関わり合いの中で生じていく」というタスクスケープの概念とも共鳴していく。
オングリッダーがその風景を見ると「こんな生活の選択肢があるのか」という閃きを得る。再生可能な資源への依存度を高め、生命を育む素材をより賢く利用することが必要となるであろう私たちの未来が、どのようなものであるかを再考するよう促してくれる、と著者は語る。
住む、それから、つくる
そして、欠かせないのはDIYの概念だ。今では聞き慣れた「ドゥ・イット・ユアセルフ」という呼称は、1912 年に人気雑誌『Suburban Life』の記事で、プロの業者に頼むよりも自分たちでちょっとした改装工事をするよう奨励したことにさかのぼる、と社会史家のスティーブン・ゲルバーは述べる。
過去30年の大部分において、DIYの精神は、文化や科学全体においてカウンターの典型として日常的に称賛されてきた。小川を利用したマイクロ水力発電、パッシブソーラーを利用した暖房システム、重力を利用した生活用水パイプへの給水、庭の肥沃度の向上など、オフグリッドホームステッドの設計と維持は、自然とテクノロジーのラインダンスのようなものだ。
しかしここで著者は、あることに気がつく。オフグリッダーたちは一人で作っているのではないと。
DIYならぬDIW(Do-It-With)は、人と人とのつながりだけではない。自邸をDIYしたエレーヌとアランの場合、タイヤ、土、砂、木、その他多くの材料が、DIWの対象である。これらは、彼らや彼らの協力者が家を形作るために編んだものであり、これらのものなしには実現できなかったのだ。メディア理論家のデヴィッド・ガントレットのお気に入りの言葉も引用しておく。
そしてもうひとつ重要なのが、オフグリッドにおける「つくる」行為は、土着を理解し、人間や素材を含む多種と協働することによって生成されるものだ。これを著者はRegenerative Life Skillsと呼び、哲学者ジョン・デューイの言葉を借りて「更新によって自己を維持する」ようなデザインと捉える。
場所を変えるような介入的な力ではなく、情報やその場所に特化した知識を使うこと、自然が与えてくれる恩恵を受けて自然に任せること、技術や建物のデザインを実際のニーズに合わせること、建物の問題に対して複数の道を探すこと、持続可能性を優先すること、過去の教訓を生かすこと、家の形を既存の場所の特性やその中で起こるフローに合わせること、孤立ではなく集合させること、などがその要素なのである。
そしてこう締めくくる。住む、それから、つくる。いい言葉だ。
切り離すことで、文化を再制作する
で、結論だ。本書を読み通して思ったのは、オルタナティブな文化は、何かから「切断」されることによって生まれるのでは?ということだ。何か、というのはメインストリームであるだろうし、本書の言い方で言えば、グリッドであり、メッシュワークに当たるだろう。
例えば、Off the Gridという同名(!)のアウトドアイベントがある。僕も2016〜2018年ごろに行っていたのだが、ここではULやMYOGといったカウンターカルチャーから派生したガレージブランドなどが出展し、オルタナティブな山の楽しみ方を一般の人に提案していた。
また、ユーザーが自ら部品を交換して修理できることを主軸に置くFairphoneや、水の民主化を掲げて次世代の分散型水インフラをつくるWOTAなど、従来のマーケットやインフラを疑いながら、オルタナティブで先進的な文化をつくる団体・企業がたくさんある。これらは、上述したような、関係性を大事にしながら、介入しすぎない力で、自然に私たちの価値観に馴染むような共通項がある気がするのだ。
すでに様々なグリッドの上で生きている自分も、何かを切断し、そこから自作し、生活を営んでいく。そんなことにもチャレンジしてみたいなと思える本でした。(山の上やキャンプで一時的にはできる)