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赤子録 ある日の幸せについて

当たるも八卦、当たらぬも八卦――、占いは心のサプリメントだと思っている。
なんとなく当たっているなと思えば、それを信じて物事が良い方向へ動くように過ごすし、なんとなく外れて欲しいなと思えば「所詮占いよ」と自分に良い聞かせて忘れてしまうのが良い。
占い好きが高じて自分でタロットカードを使って占うこともできるが、カードという他者に頭の整理を手伝ってもらっている感覚でカードを使っている。

そんな私には、人生で行き詰まったことがあると訪れる占い師さんがいる。
柔和な笑顔と雰囲気で迎えてくれるその人は人生経験も豊富だ。
占い師と聞いて想像するようなおどろおどろしい雰囲気はなく、ちょっと遠くの茶飲み友達のような感覚でお話しできるのでここぞと言うときは頼りにさせて貰っている。

そんな彼女に前回……と言っても、もう数年前だが言われたことがある。
「あなた、感情の受容体が空っぽなの。幸せって何か分からないでしょ?」
真っ向から突き付けられた鋭い質問。それに対する私の答えは大きな声でSay,Yes!だった。
悲しい話を見れば涙は出るし、嬉しい話を聞けばこれは喜ぶべき話だと「分かる」のだけれど、「感じる」ことが出来ずにいる。
頭では理解できるけれど、心で受け止めることが出来ない。
言葉にするならそんな感覚だろうか。

この感覚、出産すれば少しは変わるんじゃないかなと期待していた。だって、あれほど切望し苦しみ、ようやく赤子に出会うことが出来たのだから。
ところが、今日に至るまでそれを実感したことがない。
だって、大きくなっていく腹を見てもさほど(他の妊婦のようには)感動を覚えることはなかったし、生まれた赤子を見た瞬間も涙が溢れ出ることはなかった。
いつだって理性が感情を凌駕し、私に現実を見ろと説教してくる。
なので、やはり私にはこれからも「幸せ」って何か理解することは出来ないのかな、と少し諦めかけていたのである。

ところで、今日の昼食は焼きそばだった。
旦那さんと赤子の三人で買い物に出掛けたら予想外に時間が掛かってしまったため、帰宅してすぐに私は赤子の授乳。旦那さんは台所に立って焼きそば作りと、いつも通り慌ただしい休日だ。
ミルクを飲み終えた赤子がきゃあきゃあと可愛らしい声を上げながら抱っこを要求するので、急いで焼きそばを掻き込む。かけ過ぎた七味唐辛子のせいで、いつも通り辛い焼きそばだった。
食べ終えれば「なんのご用じゃー」と言いながら赤子を抱き上げ、リクライニングのシートに身を委ねる。最近は7㎏をオーバーしてきた小さな怪獣は、焼きそばがたっぷり詰まった私の腹部を容赦なく圧迫してくる。
揺らすと機嫌が良くなるのでジタバタと足を動かせば、私の腹の上に乗っかる赤子が案の定機嫌良く喃語を話し始めた。その様子が可愛くて、私も思わず声を上げて笑う。
そうこうしているうちに旦那さんも焼きそばを食べ終えた。
「ご機嫌ですねー、赤子ちゃん」と言いながら私の傍までやってきて、私と同じように笑い声を立て始める。
次の瞬間だった。
大人二人の笑い声に合わせるように、赤子がケラケラッと楽しそうに笑い声を上げ始めたのだ。
それを見た途端、私の目から涙が溢れていた。
幸せってこういう瞬間のことを言うんだ――と、初めて感じることが出来たからだ。

――と書いてはみたところで、恐らく私はこれからも幸せって何だろうと考えながら生き続けると思う。
初めてそう感じる瞬間に出合えたけれど、占い師さんに指摘されたとおりいまだ感情の受容体が空っぽであることは自覚しているからだ。
それでも、今日の出来事は忘れたくない。
人からすればなんてことない日常の切れ端に過ぎないかもしれないけれど、私にとっては旦那さんと赤子と三人で迎えた溢れんばかりの幸せな時間だったから。

どっとはらい。

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