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奇跡の子 第1話

 五月のある晴れた日曜日、東京のはずれにある緑豊かなニュータウンは午後の陽差しに輝き、爽やかな風がそよいだ。別沢家の三人が住む新生山あらおやまの街は、その一角にある。一家は今日、電車で都心へ遊びに行ってきて、新生山の駅に帰り着いたばかりだ。買い物客が行き交う駅前の広場に、別沢家の三人の姿が現れた。

 紙袋を持って少しくたびれたようなタカフミと、ラベンダー色のシャツのヒロコ、そしてその間に、黄色のシャツと白の短パンのマナト。マナトはヒロコと手をつないでいた。何の変哲もない親子連れだが、通りすがりの人の中には、おや、と目をとめる者もいた。というのも、マナトのもう一方の手には、鮮やかな緑色をしたレタスがにぎられていたのだ。

「でも、食品サンプルを作りに行こうなんて突然言うから、びっくりしたわよ。」
 ヒロコは笑ってタカフミを横目で見た。
「いや、この間、会社でたまたま食品サンプルの話が出てたんだ。それで、子供の頃に食品サンプルの職人さんがテレビで作っていたのを思い出してさ。そしたら、何か無性に作ってみたくなっちゃったんだ。」
 タカフミは眼鏡のフレームに手をやり、気恥ずかしそうに笑った。
「それにしても、急よ。」

 口ではそう言ったものの、ヒロコも手作り体験をけっこう楽しんだ。実際、体験教室に来ている客は女性の方が多かった。
「でも、ほら、マナトは粘土遊びが好きだから、マナトも楽しめるんじゃないかと思ってさ。マナトも喜んでるようだし、悪くなかったじゃないか。」
 タカフミは慌てて言った。
「まあね。」
 ヒロコがマナトを見ると、マナトは手でしっかりと握ったサンプルのレタスから目を離さず歩いていた。

 体験教室では、マナトはタカフミに、エビの天ぷらとレタスのサンプルを作ってもらった。というのも、年齢制限があったので、まだ三歳のマナトはヒロコに抱っこされて見ているしかなかった。それでもマナトは、レタスが作られる様子に興味津々だった。

 溶かした白と緑の〝ろう〟をお湯を張ったシンクに浮かべて、お湯にくぐらせて丸めると、レタスそっくりのものが出来上がる。その光景を間近で見たマナトの目は、とても大きく見開かれた。あっという間に目の前に出現したレタスに、マナトの目は釘付けになった。

 タカフミがお寿司を作ったり、ヒロコが小さいパフェを作ったりしている時も、ほかの客がレタスを作っているのをじっと見つめていた。一気にレタスが出来上がるのがマナトには面白かったのだろうと、タカフミは思った。そして、体験教室が終わってからずっと今も、レタスを指でいじりながら夢中になっていた。新しい宝物になったと、ヒロコも喜んだ。

 三人は横断歩道を渡り、ショッピングモールにさしかかった。
「でもこれで、おかずが二品、増えたわね。」
 ヒロコは空を見上げて、いたずらっぽく笑った。
「え? サンプルを夕ご飯のおかずにするつもりかい?」
 タカフミはびっくりして振り向いた。
「勘弁してよ、ろう人形じゃないんだから。でも、マナトは本物だと思って、口にいれちゃうかもね。」
「あら、そんなことないわよ。ねー。」
 ヒロコはマナトの顔をのぞき込んだが、マナトは相変わらずレタスに夢中だった。

 タカフミは、何となしに自分の口から出た言葉について考え始めた。ろう人形がもしも生きていたら、何を食べるのだろう? やっぱりろうでできた食べ物を食べるのかな……だけど、どのようにして? バーベキューみたいに焼いてトロリとさせるのか、それともチーズフォンデュみたいに、ろうを溶かした鍋にフォークにさした食品サンプルを突っ込んで……。

 その時、脇腹を何かに不意に突っつかれた感触があった。目をやると、それは、フォークにささったソーセージのサンプル――ではなく、ヒロコの指だった。
「でも、見ているだけでお腹がいっぱいになりそうじゃない。」
 最近肉がついてきたのを指摘するように、ヒロコはタカフミの横っ腹を指で刺した。ヒロコに突かれて、タカフミは我に返った。
「いや、まあ、確かにね。ふーむ、〝食品サンプルダイエット〟か……。うーん、ありそうな、なさそうな……」
 タカフミはそういうと、今度は食品サンプルダイエットについて考えを巡らし始めた。

 タカフミは出版社に勤めている。会社ではいつも新しい企画を考える必要があるのだった。それで、ちょっとしたことでも雑誌の企画にできるかどうか、考えるのがくせになってしまっていた。

 ユリノキの葉がそよ風に揺れるレンガ通りを進むと、大きな橋と芝生が見えてきた。このあたり一帯は、渡り池公園という広い公園になっていた。街との境目がないように上手く組み込まれた、ヒロコのお気に入りのきれいな公園だ。このまま真っ直ぐ橋を渡って行くとヒロコたちの家に着くが、ヒロコはタカフミに声をかけた。

「ちょっと寄っていきましょうよ。」
 ヒロコはそう言うと、橋の手前の横道に歩を進めた。橋の周りはすり鉢状に低くなっていて、下には浅い池があり、その周りを芝生の道がぐるりと半円を描いて、橋の向こう側につながっていた。

 二人は道沿いのベンチに腰を下ろした。マナトはヒロコにレタスを預けると、芝生の斜面を駆け下りていった。タカフミは一息つくと、正面の橋をぼんやりと眺めた。

 この橋は新生橋あらおばしという名で、レンガ積みの土台に鋼が渡されている時代がかったものだった。その四隅には丸いランプの橋灯が置かれ、空につき出ていた。この橋は、以前は都市部にかかっていたものを、新生山に移築したものだった。橋の下には、水の板のような鏡池が奥まで続いていて、橋のアーチを映していた。そして橋の上には、さわやかな青空が広がっていた。

「今日は気持ち良いなあ。」
 タカフミは大きく伸びをして、足を伸ばした。
 ヒロコは、鏡池の方へ降りていくマナトを目で追いながら、
「新しい企画は順調?」
 と、タカフミに言った。
「まあ、なんとかね。」
 会社では、新しい辞書を作る企画が立ち上がっていて、タカフミも参加していた。
「マナトも大きくなってきたことだし、わたしも働きに出ようかしら。」
 ヒロコは何気ない口ぶりで言った。
「えっ?」
 タカフミは驚いて、身を起こした。
「初めて聞いたんだけど、それ、本当かい?」
 ヒロコは黙ってうなずいた。
「マナトは、空きができた保育園に通ってもらうことになるけど。」

 確かに、今の別沢家の家計にそれほど余裕がないのは、タカフミも分かっていた。マナトが大きくなるにつれて色々とお金もかかってくる。ヒロコが家計を支えてくれれば助かるとは思うものの……。
「でも、マナトは大丈夫かな……」
 タカフミはヒロコを不安げに見た。
「きっと大丈夫よ。保育園に通えば、マナトもきっと……、あら?」

 ヒロコの視線の先には、マナトが鏡池のそばで遊んでいる四、五人の子供たちに囲まれて何か言われているのが見えた。タカフミもそれに気づくと、「行ってくる。」といって立ち上がり、池の方へ降りていった。

 自分より少し年上の子どもたちが、鏡池でしゃがんで遊んでいるのをマナトは見つけたので、何をしているのだろうと思って近寄った。子どもたちは、近くから拾ってきた折れた枝で池を突いたり、池の水をかきまわしたりしている。ジャボジャボと音がするたびに波紋ができ、キラキラと光を反射していた。

 マナトが後ろでじっとその様子を見ていると、やがて子どもたちの一人が、それに気づいた。
「なに?」
 オレンジ色のTシャツを着た男の子がしゃがんだまま、首だけマナトの方に向けた。けれどもマナトはそれには答えずに、あごに指をあてて男の子をじっと見つめ返したままでいた。
「なんかよう?」
 男の子は顔をしかめて立ち上がった。じっと見るマナトの視線に、親の視線のような疎ましさを感じたのかもしれない。他の子どもたちも二人のやり取りに気づいて、立ち上がってマナトを取り囲んだ。子どもたちは、マナトより皆背が高かった。

「どうしたの?」
「この子がさっきからずっと見てるんだ。」
「だれ?」
「まだこどもじゃん。」
「一緒に遊びたいの?」
「タカシの弟?」
「ちがうよ、知らないよ。」
「お菓子なら持ってないぞ。」

 子どもたちは口々に言ったが、それでも相手の反応がないので、赤い帽子をかぶった子がマナトの胸を軽くこづいた。
「なんかいえよ!」
 それでもマナトは、大きな目でじっとその子を見つめていた。帽子の子が再び何か言おうとしたその時、タカフミがやってきた。

「どうしたの?」
 タカフミは腰をかがめて、マナトを取り囲んでいる子どもたちに聞いた。
「この子、聞いてもなにも言わないんだけど。」
 オレンジのTシャツの男の子が、口をとがらした。すると、タカフミは少し寂しげな目をして微笑んだ。
「うちの子、まだお話しできる年じゃないんだよ。」
 そう言って、タカフミはマナトの両肩に手を置いた。
「あ、そっかー。」
 青いシャツの子が、あっけらかんと高い声を上げた。
「マナトっていうんだ。よかったら遊びに入れてくれるかな?」
 タカフミが言うと、
「オッケー。」
 という、さっぱりとした返事が返ってきた。 子どもたちはまた池で遊び始めたので、タカフミはマナトの頭になでると、鏡池を後にした。

「ケンカでもしたの?」
 ヒロコは、戻ってきたタカフミに聞いた。
「いや、ケンカじゃないよ。」
 タカフミはヒロコの隣に腰を下ろした。
「話しかけても、マナトが何も返事をしなかったんだって。」
 タカフミは軽く息をつくと、子どもたちに混じっているマナトの後ろ姿を見つめた。
「もう三歳なのにね……。」

 実は、マナトが言葉を発するのを、二人はまだ一度も聞いたことがなかった。二人が話しかけても、先ほどのようにマナトは大きな目でじっと見つめるだけ。耳は聞こえていて、呼びかけるとちゃんと振り向くし、笑顔や驚いた表情をみせたりするのだが、言葉だけ出てこなかった。

 子どもの発達には個人差があり、一概には言えないが、マナトの言葉の発達は遅いように思われた。よく走りまわったり体を動かしたりして元気なのだが、唯一、二人が心配しているのは、言葉を発しないことだった。

「まあ、気長に待とうよ。この間の健診でも、特に異常はないと言われたんだし。」
 橋の向こうの空を眺めながら、タカフミは言った。
「ええ。」
 ヒロコも、気に病むほどではなかったが、やはり気にはしていた。
「マナトのペースで大きくなってくれればいいわ。」
 というものの、心の晴れないヒロコは芝生を見つめた。
「さっきの話だけどさ、働きに出るって本当かい?」
 タカフミは話題を変えるように、先ほどの話を持ちだした。
「ええ、もちろん。何だか私も外で動きたくなったのよ。」

 ヒロコはタカフミに笑顔を見せると、顔を上げた。マナトや家計のことももちろんあるが、ヒロコ自身としても、外に出て自分の視野を広げたいという気持ちが、いつのまにか大きく膨らんでいたのだった。
「そっか。じゃあ、マナトの保育園をさがさなくちゃね。」
「ええ。」

 二人が鏡池の方へ視線を移すと、マナトがちょうどこちらに走ってくるのが見えた。体を揺らしながら斜面を駆け上がってくると、芝生に体ごと飛び込んだ。
「ゴール!」
 二人は笑顔でマナトがやってくるのを待ち受け、マナトがダイブすると、タカフミはそう声を上げた。
「たくさん走ったねえ。」
 ヒロコはマナトの背中をさすった。

「おにいちゃんたち、遊んでくれた?」
 マナトはしばらく芝生に顔をうずめていたが、やがて顔を上げ、手をついて立ち上がった。
「もうそろそろ帰ろうか。夕ご飯の時間も近いし。」
 タカフミはそう言って立ち上がった。池で遊んでいる先ほどの子どもたちの中の何人かがこちらを見ていたので、タカフミは手を振った。
「またねー。」
 三人は芝生の道をぐるっと回り、公園を後にした。

 クリーム色やオレンジ色の家々が立ち並ぶ石畳の通りを進むと、十字路に出た。ここを曲がれば、すぐに三人が住むアパートに着くのだ。まだ新しい、真っ白なアパートだ。門を開けた時、後ろから声がした。

「おやおや、今、お帰りかい?」
 振り向くと、向かいの家に住んでいるマージばあさんが、自宅の門からちょうど出てくるところだった。
「ちょっと遊びに行ってきまして。」
 タカフミは手にさげた紙袋を持ち上げて見せた。マージばあさんは素早く紙袋を確認すると、そのままヒロコやマナトに視線を移した。

「都会の方へ行ってきたのかい?」
「ええ、そうです。」
「それを買いに?」
 マージばあさんは、マナトが手にしている偽物のレタスをめざとく見つけて指さした。
「いえ、これは作ってきたんですよ。体験教室で。」
「へえ、本物みたいだね。」
 マージばあさんは頷いた。
「教室といえば、駅前のエクササイズ教室がなくなるらしいね。」
「あら、そうなんですか?」
「張り紙が出てたようだったけど、見なかったかい?」
「いえ、気づきませんでした。」
「そうかい。ま、いいさ。それより、あそこのかどの家の橋本さんが引っ越すらしいよ? あそこの旦那さんはコンピューター関係の仕事をしてるから、……。」

 いつものことだが、マージばあさんの噂話が始まった。彼女は噂話が好きで、人に会うたびにこうして、新しい噂を話し回るのだ。新生山の事なら、どんなささいな事でも知っているかのようだった。マージというのは、本名ではなかった。街の噂話をして、相手に「それって本当?」と言われると、「マージな話さ。」と答えるので、いつのまにか皆はマージばあさんと呼ぶようになった。

「……だから、引っ越すらしいよ。おや、ついつい長話しちまったね。悪いね、引き留めて。それじゃ、アタシは出かけるから。」
 マージばあさんはそういって大通りへと向かっていった。小さくなっていくマージばあさんの後ろ姿を見送りながら、二人は顔を見合わせて笑った。

 帰宅すると、ヒロコはキッチンで夕食を作り始めた。タカフミは紙袋の中身をリビングのテーブルに出して、テレビをつけながら、マナトをみていた。マナトはおもちゃ箱から粘土を取り出して、遊び始めた。

 最近、マナトは粘土遊びをよくするようになった。動物や乗り物のかたちを作っては、それを動かして遊んだ。子供がよくする遊びだが、マナトの作る粘土細工は、三歳にしては上手だとタカフミが感心するほど、出来が良かった。

 今、マナトはオレンジの粘土で、人の形を作っていた。
「今日遊んだおにいちゃんかな?」
 タカフミはマナトの横に座って声をかけた。「オレンジのTシャツ着てたね。」
 マナトは黙々と手を動かしていた。
「他にもいっぱいいたね。」
 タカフミは青と緑の粘土を手に取って、マナトの近くに置いてみた。

 マナトはオレンジの子どもを作りおえると、粘土を床に置いて、空気をもむように両手の指を空中で動かした。最近タカフミも気づいたことだが、新しいものを作るときに、マナトはこういう動作をする癖があった。これから次のものを作るぞ、という腕をならすような気持ちのあらわれだと、タカフミは思っていた。マナトがこの動作をしてから粘土がこねられると、また新しい形が出来上がるのだった。

 マナトが次の〝作品〟を作っているのを見ていると、テレビから女性キャスターの声が聞こえてきた。

「今日午前八時過ぎ、平沼市の平沼美術館に職員が出勤したところ、所蔵のマリア像がなくなっていることに気づき、警察に通報しました。近所の住民によると、昨晩不審な車と二人組の男が目撃されており、警察は盗難事件として、不審な二人組の行方を追っています。」

 タカフミがテレビを見ると、画面には五十センチくらいの真っ白なマリア像が映っていた。そして神妙な顔つきの館長が映され、一刻も早い犯人の逮捕と、マリア像の返却を願う言葉が続いた。

「平沼市でマリア像の泥棒が出たってさ。物騒だね。」
 タカフミはヒロコに言った。
「いやねえ。」
 ヒロコも鍋をかき混ぜながらテレビを見ていた。
「マリア像なんか、マナトが作ってやるのになあ。」
「マリア像のかわりに、マナトが作ったものを美術館に飾ってもらってもいいわね。」
「ハハハ、それもいいね。」
 ヒロコは鍋の火を止めた。
「さあ、ご飯ができたから、二人とも手を洗ってきなさい。」
 ヒロコはそう言うと、食器棚からお皿を取り出し始めた。
 タカフミとマナトが洗面所で手を洗ってくると、すでにテーブルにはカレーライスとサラダが並べられていた。

 三人が席に着き、カレーライスを食べていると、タカフミが話を切り出した。
「ママ、ちょっと話があるんだけど。」
「なに?」
 ヒロコはサラダを食べながら聞いた。
「ほら、僕は出版社に勤めているだろ。仕事をしているうちに、僕も一冊くらい本を書いてみたいなあって思うようになってさ。それで思いついたんだけれど、絵本を描こうかなって。」
「うん、いいんじゃない?」

 そんなことなら別にかまわないと、ヒロコは思った。しかし、タカフミの話には続きがあった。
「出版はしないんだけどさ。」
「趣味でってこと?」
「うん。それで、ママにも描いてもらおうと思ってさ。」
「え、なんで?」

 ヒロコはびっくりして、箸を止めた。タカフミは、もくもくとスプーンを動かしているマナトを見ながら言った。

「実は、マナトに絵本をプレゼントしようと思ってね。マナトが生まれるまでの僕たちの人生を一冊の絵本にしたら、マナトも喜ぶんじゃないかって思ったんだ。表紙には僕の絵、背表紙にはママの絵をそれぞれ描く。といっても、この絵本には表も裏もないんだけれども。右から読めば、僕の子どもの頃から始まって、どういうふうに大人になってきたのかが描かれている。同じように左から読めば、ママの子どもの頃からの人生がわかる。つまり、右のページからも、左のページからも読める絵本さ。そしてページをめくっていくと僕たちの出会いや結婚があって、ちょうど真ん中のページには、僕と君と今のマナトの姿が描かれている、っていう感じなんだけど……どうかな?」

 ヒロコは黙ってテーブルを見つめた。それを見て、タカフミは慌てて付け加えた。
「ほら、絵本ならマナトも楽しめるし、描くのは暇があるときに少しずつでいいんだ。〝今年のクリスマスのプレゼントにでも〟って考えてたんだし。働きに出たいって聞いたそばから、こんなことを言うのもなんだけれど……。」
 そういってタカフミは返事を待った。

 ヒロコは少し考えてから、「わかったわ。」と、了承した。 
「でも、わたしが引き受ける部分は、いつ完成するか分からないわよ? なるべく早く描き上げて、クリスマスに間に合うようにはするつもりだけどね。」
 ほっとしたタカフミの顔がほころんだ。
「うん、わかった。ありがとう。いや、内心断られるかもしれないって思ってたから、良かったよ。」
「あら、断りなんかしないわよ。私も良いプレゼントだと思うわ。子どもができてから、自分の子ども時代を振り返るのも、懐かしいし。」

 ヒロコはさっそく、絵本の段取りをタカフミと相談し始めた。
「じゃあ、まず、何も書かれてない、真っ白な本を用意しないとね。」
「うん。でも、お店に売ってるかなあ、中のページだけじゃなくて、表紙も真っ白な本なんて。なかったら、本から作ることになるかも――。」
「なによ、そこは確認してないの?」
 ヒロコは笑った。

「全部で何ページの予定なの?」
 タカフミは額に手を当てて言った。
「えーと、クリスマスプレゼントだから、二十四日にちなんで、二十四ページがいいかなって考えていたんだけど。」
「じゃ、十二ページくらいを描けばいいわけね。」
 ヒロコはうなずきながら、横目でテーブルを見つめた。絵本の制作にかかる、おおよその時間を見積もって、自分のスケジュールにどう組み込むかを思案していた。その様子を見たタカフミは、ヒロコは絵本の制作に気が進まないのだと受け取った。

「あの、ママのペースで描いてもらえればいいからね。急ぐ必要はないからさ。」
「ええ、分かっているわ。でも、もし次の子が生まれたら、どうなるのかしらね?」
 ヒロコは微笑んだ。
「えーと、そうなったらマナトにも描いてもらうことになるから……、三角形の本になるのかな?」
 タカフミは宙に視線を漂わせながら言った。
「それこそ、お店には売ってないでしょうね。」
「ハハハ、そうだね。自分で作らなくちゃならなくなるね。」
 タカフミはそう言うと、再びカレーライスを食べ始めた。夕ご飯を食べ終わったマナトは粘土遊びの続きをしようと、リビングに走って行った。
 こうして別沢家の休日は、いつものように穏やかに過ぎていった。

 まもなくして、マナトはこだま保育園に入園した。マナトは水色のスモックと黄色い帽子を身につけて、通りの保育園の送迎バスが停まる所まで、ヒロコに付き添われて通うようになった。バスの乗り合わせ場所には、一組の親子がバスを待っていた。マナトと同じ組の糸井ハルカと、その母親のカオリだった。

「おはようございます。」
「おはようございまーす。マナト君もおはよー!」
 カオリはマナトに勢いよく手を振った。細身のカオリは活発で社交的な女性なので、ヒロコも付き合いやすかった。 
「ハルカちゃん、おはよう。」
 ヒロコはそういうと、マナトの背に手を当ててハルカと向かい合わせにした。
「さっき、いぬ、いたよ。」
 ハルカはマナトに声をかけた。
「ハルカ、さっき、いぬみたよ。」
 ハルカはマナトとほぼ同じ年頃だが、マナトと違って、よくしゃべる子だった。
 マナトは、あたりをキョロキョロ見回して、ハルカのが見たという犬を探した。
「あ、おはな。」
 ハルカは街路樹の根元に咲いていた、小さな花を指さした。マナトもハルカの指さす方をながめた。
「アメ、いる?」
 ハルカはマナトの耳に手をやって、こっそりマナトにささやいた。そして、マナトがうなずくと、ハルカは母親たちに見つからないよう、マナトの手に小さな包みを握らせた。

 ヒロコとカオリが世間話をしていると、保育園の送迎バスがやってきた。黄色くて丸っこいバスの中は、すでに騒がしい子どもたちでいっぱいだった。
「おはようございます。」
 バスのドアが開くと、エプロンをした若い女の先生が出てきた。ミヤ先生だ。
「ハルカちゃん、マナト君、おはよー。」
 ミヤ先生は明るく二人に挨拶した。
「おはようございます。」
 ヒロコとカオリも挨拶した。

 ヒロコは保育園側に、マナトがまだしゃべることが出来ないことを、あらかじめ伝えていた。それでも他の子と同じように接してほしい、返事がなくても話しかけてほしい、とも伝えた。初めて出会う、保育園の子どもたちや先生と接していくうちに、マナトも言葉を発するかもしれないという期待もあった。同じ年ごろの子たちとのふれあいの中で、マナトも自分から主張する機会が出てくるのではないか、とヒロコとタカフミは考えたのだった。

 マナトとハルカがステップを登って乗り込むと、バスはエンジン音をたてて走って行った。
ヒロコはカオリと別れると、そのまま新生山駅の方へ歩き出した。ヒロコはピザ屋の配達の仕事を始めたのだった。もしもマナトに何かあってもすぐに駆けつけられるし、この地域のことにより詳しくなれるのが、今のヒロコにはちょうど良かったのだ。


 この日も、ヒロコは仕事を終えた後、マナトを迎えに行って帰宅した。夕ご飯の支度をしていると、玄関のチャイムが鳴った。手を止めて出てみると、宅配便だった。送り主は、ヒロコの両親からだった。
「何かしら?」
 ヒロコはリビングに荷物を持っていき、マナトのそばに座った。マナトは自分で作った粘土細工で遊んでいた。
「ほら、じいじとばあばから、荷物が届いたよ。」

 ヒロコはさっそく中身を確認すべく段ボールを開けた。中からは、子供服や絵本やお菓子が出てきた。
「もう、買わないでいいって言ってるのに。」
 ヒロコはひとり愚痴をこぼした。マナトの物はちゃんと自分たちで揃えると言っておいたのに、ヒロコの両親はなにかと送ってくるのだった。といっても、ヒロコの両親からすればマナトは初孫なので、何かしたくなるのも無理のないことかもしれない。

「ほら、絵本が入っていたよ。」
 ヒロコは段ボールの中から絵本を二冊取り出し、その内の一冊を開いてマナトの前に置いた。そして、キッチンに置いておいたスマートフォンを取りに行き、両親に電話をかけた。荷物が届いたという報告とお礼と、愚痴をちょっぴりと、世間話をたっぷり。ちらちらマナトの様子を見ながら話していたが、マナトは絵本を見ているようだった。

 電話を切ると、荷物を片付けるためにヒロコはリビングに戻っていった。マナトはまだ絵本を読んでいた。しかしよく見ると、絵本の上に、赤くて丸い物が転がっていた。

「あら?」
 ヒロコが手に取ってみると、それは、りんごだった。
「りんごなんて、入っていたかしら?」
 ヒロコは段ボールの中に手を突っ込んで、ガサゴソ探してみたが、りんごはおろか、他の果物さえも見つからなかった。
「変ね。りんごを一個だけ入れたのかしら? でも、さっきの電話では何も言わなかったし、わたしも最近りんごを買った覚えはないんだけどな……。」

 ヒロコは小首をかしげて、記憶を探った。
「きっと、絵本やお菓子を詰め込む時に、うっかり一緒に入れちゃったんだわ。」
 ヒロコはそう納得すると、りんごに鼻を近づけてみた。ぷんと甘い香りがした。りんごの香りで、ヒロコは自分の空腹が刺激された。

 ヒロコがキッチンでりんごをかじると、口の中に甘酸っぱい果汁が広がった。片方のほっぺにりんごのかけらを置きながら食べていると、玄関のチャイムが鳴った。インターホンを確認すると、タカフミの姿があった。
「んー。」
 ヒロコが返事をすると、ヒロコは急に苦しみだし、床に倒れた。

 最近のタカフミには珍しく、今夜は早めの帰宅だった。気分良く玄関のチャイムを鳴らした。ヒロコの声が聞こえたような気がしたが、すぐに何かドスンと物音がした。「何だろう?」と不審に思い、タカフミは鞄から鍵を取り出した。
「ただいまー。」
 ドアを開けても、家の中から返事はなかった。確かにヒロコの声が聞こえた気がしたが、妙に家の中が静かだった。 

 タカフミがリビングドアを開けると、マナトが絵本のそばで座っているのが見えた。
「マナト、ただいま。ママは?」
 リビングにはヒロコの姿はなかった。マナトが一人でいるのを不審に思いつつ鞄を置き、のどが渇いていたのでキッチンへ向かうと、倒れているヒロコが目に入った。
「おい、ヒロコ、どうした!」

 タカフミは駆け寄り、ヒロコの肩を揺らした。何の反応もなかった。ヒロコの胸に手を当てると、心臓は動いていた。周囲を見回すと、食べかけのりんごが床に落ちていた。タカフミはとっさの判断で、ヒロコを抱き起して、背中をたたいた。

 すると、ヒロコの口から、りんごのかけらが飛び出した。ヒロコは咳き込みながら、意識を取り戻した。
「ヒロコ、大丈夫か?」
 タカフミはヒロコの背中をさすりながら、ヒロコの呼吸が落ち着くのを待った。
「ゴホッ、ケホッ……、ハアハア……、フー……。」

 ヒロコは呼吸を整え、深呼吸をした。もう大丈夫だと思い、ヒロコは体を起こした。「大丈夫かい?」
 タカフミはもう一度聞いた。
「ええ、もう平気。」
 ヒロコは床を見つめながら言った。
「りんごがのどに詰まったようだけど……。」
「え? ああ、そうね。りんごが届いたから、ちょっと食べようと思ってかじったら、急に苦しくなって意識が遠くなってしまって……。」

 ヒロコは、床に転がっているりんごをぼんやりと見つめた。タカフミはりんごを片付けると、ヒロコをリビングのソファーに座らせた。ヒロコの姿を見つけると、マナトはヒロコのそばに寄ってきた。ヒロコは気持ちも落ち着いてくると、隣に来たマナトの頭をなでた。

「夕ご飯、どうする?」
 タカフミは心配してヒロコに聞いた。
「何か食べやすいものとか、出前でも取ろうか?」
「いえ、もう大丈夫よ。今、ご飯を作っている途中だったし。ちょっと遅くなるけど、作れるから。」
 ヒロコはそういって立ち上がった。
「僕も手伝うよ。」

 そう言うと、タカフミはすぐに着替えに寝室へ向かった。マナト粘土細工を手に持って、タカフミの後を追いかけていった。 
誰もいなくなったリビングには、開きかけの段ボールと、絵本が残されていた。閉じられた絵本の表紙には、「白雪姫」と書かれてあった。

 それから三ヶ月の間、別沢家では、少し変わった事がたびたび起きていた。季節外れの花が家の中に落ちてあったり、買った覚えのない物が転がっていたり。タカフミとヒロコは、「変だな?」とは思っても、それほど気にとめることはなかった。

 というのも、二人とも忙しくなっていた。ヒロコは配達の仕事とマナトの保育園のことで頭がいっぱいだったし、タカフミは相変わらず会社の仕事が忙しかった。

 それでも、ヒロコはマナトへのプレゼント用の絵本を描き終え、タカフミにバトンタッチした。タカフミも順調にページを埋めていっていた。絵本の制作はもともとタカフミの発案で、タカフミも張り切っており、ヒロコが描いている間に何を描けばいいか考える時間もあった。そうして、タカフミは絵本の完成まであともう少しというところまでこぎ着けた。

 そんなある日、事件は起こった。


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