10分で悟れる私的仏教論
釈迦の教えとは何か?
シンプルに一言で表すと、すなわち「空」である。
では、「空」とは何かというと、数学でいうところの「0」を意味する。
「0」は数学上の大発見と言われているように、無であると同時に、あらゆる数を内包できる偉大な数字である。
これだけでは意味がわからないと思うので、具体的な例をあげて考えてみよう。
私たちは普段、万物の霊長である人間様として、なにかとてつもなく偉い存在のような気分で生きている。
そこで、今回はあえて「酸素」の気持ちになって物事を考えてみたい。酸素とはもちろん、中学の理科で習った元素記号「O」であるところの、あの酸素である。
酸素は普段空気中をぷかぷかと浮遊している。ところが空気中を浮遊していると、動植物の呼吸に取り込まれることがある。そうなると炭素と結合し、二酸化炭素になる。
二酸化炭素として空中に浮遊していると、今度は植物の光合成に利用され、再び酸素(O₂)として排出される。
さて、このような酸素目線で世界を見た時、そこに「私」や「あなた」のような恣意的な区別はあるだろうか?
あるわけがない。
そこには「個人」の識別どころか、人間か動物かの区別すら存在しないだろう。酸素にとって、世界は巨大な循環系システムに過ぎず、ありとあらゆる生物は、その循環系システムの一部として組み込まれているに過ぎない。
それにもかかわらず、人間は誰しも、自分という存在が、なにか他のあらゆる存在と異なる特別なもののように感じて生きている。
なぜなら、人間には「自我」という囚われが存在するからである。
釈迦は、この「自我」が、人間の脳の認知機能が生み出した幻想であることを喝破した。
自我を離れて、世界を正しく見つめることができるようになれば、心は自由無碍となり、酸素の気持ちになって物事を考えることさえも容易くできるようになる。
そうすると、私たちは、動物や、虫や、植物や、あらゆる宇宙と隔たりなく繋がっていることに気付かされる。生も死も、幸も不幸も、水平線の彼方のものとして溶け合い、今生の全ての苦しみから解脱できるのである。
ところが、ここにひとつ問題が生じる。
私たちは、肉体――すなわち数字でいうところの「1」となる確かな実体を有している。
このような実体ある存在として物質世界をせせこましく生きる私たちが、本当に「0」になり切ることなど可能なのだろうか?
たとえば、これを読むあなたが、仏教の教えは「空」だと聞いて、なるほどと深く得心したとしよう。
すると、それまで”1”であった自我は”0.1”になり、魂のステージがランクアップするかもしれない。
しかしながら、残念なことに”0.1”と”0”は、決定的に異なるものである。
これではいかんと一念発起で出家し、本格的に仏教に帰依し、毎日毎日、何年も厳しい修行を積み重ねたと仮定しよう。
すると”0.1”は”0.01”に、さらには””0.001”に、真面目に修行を続ければ”0.0000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000……00001”になることさえあるだろう。
だが、”0.00……01”の0をどれだけ積み重ねようと、それが”0”になることは永遠にありえない。
有はどこまでいっても有であり、無に至ることはないのである。
ところが、この”0.(ゼロコンマ)”以下の0を並べていく作業を延々と続けていると、理屈を超えて、ふとしたある瞬間に”0”へと「達する」ことがある。
説明が後先になってしまったが、実は、この”0”への超越的な相転移現象こそが「悟り」であり、よく知られるように「仏陀」という釈迦の別称は、悟りを開いた人を意味するサンスクリット語からきている。
ゴータマ・シッダルッタとは”完全なる0”へと達した人類史上初めての人物なのである。
そのため現代仏教においても、禅宗のように釈迦の法統を直接に継ぐ宗派は「只管打坐」といって、ゼロコンマ以下の0を重ねるかのごとき修行を重視する。
有名なエピソードでいえば、香厳智閑禅師というお坊さんは厳しい修行を重ねても悟りを開くことができず、ついに自分には無理だと諦めて墓守の掃除をしていた時、ホウキで払った小石が竹を撃つ「カチーン」という音を聞いて、瞬時に悟りを得たという。
パッと聞いただけでは、ただただ意味不明なだけのエピソードであるが、これなど悟りという不思議な現象の気分を、よく表しているように思う。
悟りとは、そういうものなのである。
さて、ここで再び本質的な疑問に立ち返りたい。
かような「悟り」とは、あらゆる衆生に開かれたものといえるだろうか?
この疑問に答えるために、「悟り」を開くことができる人物の類型が、どのようなものか考えてみよう。
まず悟りを得るためには、知的な理解力は必須であるから、賢くあらねばいけないだろう。
さらに、0に達する瞬間は人知を超えたものである以上、運も必要である。
また延々と0を積み重ねる非生産的な生き方が許容されるくらいだから、さぞや実家も太いに違いない。
そうなってくると仏教の「悟りを開けば救われる」という教えは、こう言っているのに等しい。
「金持ちの家に生まれた、頭がよくて、運の強い人は、そうでない人よりもハッピーになれるよ!」
そんなこと、わざわざ釈迦に教えられなくても知っとるわ!
と、誰だって思うだろう。
――仏の教えがそんなつまらぬものであるはずがない。
魂の慟哭にも似た切実さをもって、そう考えたのが法然や親鸞といった浄土教の一派である。
なかでも浄土真宗の開祖となった親鸞は言う。
御仏の心性は深い慈悲に満ち溢れているはずである。金持ちで頭が良くて運の強い人間が幸福になれるのであれば、なおのこと、貧乏で、馬鹿で、運の悪い、哀れな人間をこそ幸せにしてあげたいと考えるはずだ、と。
「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや(善人でさえ往生できるのである。どうして悪人が往生できないことがあるだろうか)」
かの有名な「悪人正機説」である。
親鸞はこうも考えた。
宗教とは何か?
宗教の本質とは信仰心――つまりは「信じる」ことにある。
ならば、”0.”の後に延々と0を並べていく作業のかわりに「.(少数点)」を「.(ピリオド)」と読み替え、”0.(ゼロ・ピリオド)”としておいて、これすなわち”0”であると信じることができたならば、それはつまり”0”であるのと同じことといえるではないか。
この裏ルートを辿って「0」に至る道筋を、親鸞は「横超」と呼ぶ。浄土宗は、「0」への隔たりの崖を飛び超えるのに、竪(たて)に階段を積み上げるのではなく、信仰心を勇気にかえて向こう岸へとただ身を投げ出す。
この思想は、数学でいえば、複雑な計算式を必要とする難問を、たった一本の補助線によってあっという間に解き明かしてしまうような美しさがあるように思う。
僕は個人的に親鸞さんが好きであるが、信仰心としては無宗派に近い。
それでも浄土教の教義には救われるものを感じる。
浄土教では0に続くピリオドをもたらす超越者の存在を「阿弥陀如来」と呼んでいる。
阿弥陀如来は臨終を迎えた人間を、一人の遺漏もなく、極楽浄土へと連れていく。
それは文字通り万人を意味し、悪人だろうが、異教徒であろうが関係ない。それどころか「阿弥陀如来なんか知るか! 誰が極楽浄土なんか行くか!」と逃げる人間さえも、追いかけていって救ってしまう。
だから、もし僕がいつか死ぬ瞬間を迎えた時、その恐怖と絶望のなかから、なにかに縋りつきくなれば、阿弥陀如来のことを想えばいい。
たとえ、それまで信仰もなく、煩悩にまみれながら、好きなように生きていたとしても、阿弥陀如来は最後の最後で必ず助けてくれる。まるで子供の頃にみたアニメのヒーローのように、都合よく駆けつけてくれる。
もしも、この記事を読んで、ほんのちょっとでも同じような気持ちになれたならば、それは仏教的な悟りを得たといえなくもなくないと、いえなくもないのである。(引きの強いタイトルを無理やり回収するためのこじつけ)
※空気目線のくだりはケネス・J. ガーゲン著『あなたへの社会構成主義』の内容を参考にしています。
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