苦しい、と言えない世界線を背負って生きる人間たち

世の中には苦しいことが溢れている。
もちろん、美しいことやたのしいこともたくさんある。

ただ、美しいことを美しい、楽しいことを楽しいと言えるテンションで、「苦しいことを苦しい」と言えたり言われた時に受け止められる世界線はないようにおもう。

美しいことや楽しいことと同じくらい、苦しいことはある。なのになぜ、声を大にして苦しいと言ってはいけないのだろうか?

なぜ、苦しいという事実を口にしただけで、重いと思われ遠ざけられたり、疎まれたりしなければならないのだろうか?

別に美しいことや楽しいことが何もないなんて言ってない。同じくらいには、苦しいことがあると言っているだけ。
尊んだり喜んだりを表現するのと同じくらいの頻度とテンションで苦しんだり悲しんだりしても別にいいじゃないか。

なんでダメなんだろう。
思い込みじゃない。ダメだと、「負の感情」と言われるものを他者に表現してはダメだと、社会が、周りが、当たり前のこととして言葉や態度、視線で示している。

生きづらい。
逆に他の人たちは、なんで生きていられるんだろうか
もしかしてじぶんの知らないどこかに、世の中に
事実と同じ割合の美しさ楽しさ:苦しさ悲しさ=尊んだり喜んだりの表現・頻度:苦しさや悲しさの表現・頻度
が許されている世界線があるのだろうか?
じぶんが気づいていないだけなのだろうか?

今日も答えはでない。
今日も眠れない。

今回は大きな勇気をだして、「人様にとって耳触りのいいポジティブな結び」ではなく、ただありのままの疑問をただ書き連ねて、そのまま残してみようとおもう。

いつものごとく、数時間後や数日後には自己嫌悪に囚われて消すのかな
今回は社会や社会に沿って生きている人から好まれない、そのままのじぶんを受け入れられるのかな

どうでもいい。
どうでもよくない。
どうにかなってほしい。

いつものごとく、矛盾と葛藤に満ちている。

眠れますように。

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