芸術に潜む狂気
昨日は、ご存知の方もいらっしゃると思いますが、
帰省に伴い更新ができず申し訳ありませんでした。
京都に戻りましたので、資料を元に公演の振り返りを近日中に書かせて頂こうと思いますので、楽しみにお待ちください。
さて、本日のテーマは
芸術の製作過程に突如として現れる狂気について
芸術作品の製作過程には、常人を越える負荷がかかる場合があります。
こと、演劇においてもそれは言えることであり、芸術系にある果てしなさに分野の多さが合わさり、独特なものになっているかもしれません。
では、一体どのような時に狂気と鉢合わせてしまうのでしょうか。
それは言ってしまえば、製作過程の第一歩として題材を決定しリサーチを始めた時からです。
どんな芸術作品であってもスタートは、無を有にするか、その有を無限大の可能性にかける事になる訳です。その作業自体に心折られていく方もいらっしゃる程で、そもそもが芸術作品を名乗る方には、それ相応の対価を払って創り出したバックボーンがある事は間違いありません。
ですので、いくら門戸も広く多様な作品が認められる芸術分野でも、軽率に名乗りだせる物でも無い責任がある程度ある事を理解頂きたいです。
さて、製作の一歩目から無限大な可能性の中に放り出された我々は、宇宙空間を漂う如き時間を、まず過ごす事になります。
故に、作品の輪郭を産むには超新星爆発に匹敵する労力を必要とする場合があります。コレが、そもそもの無から有を創り出す負荷で、結果そこに片足を乗せる程度の土台が築かれたのみなので、ココから様々な取捨選択をした上でその土台や、その上に乗せる作品の骨組みや肉付けが行われる訳です。
この取捨選択も、途方もない可能性と先人達が示した回答へのアンサーを擦り合わせて行く作業になります。演劇には文学、技法・技巧、演出と様々な擦り合わせの作業が必要となり、それを一個人と集団の2つの局面でほぼ同時進行に行わねばなりません。
そうした作業の先に、指標を見出し、作品の舵取りが安定したとて、狂気の沙汰は続きます。観客の視点から作品の粗を探し、演出の印象の普遍化を図り、参考文献や原典に対しての持論の整理などなど…お客様がいて成立する媒体である以上、演劇はそこまでを把握した上で作らねばなりません。
その何十億通りか分からない可能性の中で、一つの可能性をつまみ出して
芸術作品は世の中に、形を成すことができます。
芸術風や芸術的といった評価が付くのを乗り越え、芸術たる作品を送り出す人々には、日夜そんな苦労があるかもしれない事を少しだけ念頭において頂ければ幸いです。
今日はこのへんで。
では、また。