越えるべき壁と超えられない壁
さて、本日二本目のnoteは…
追いかけたい背中、聳え立った壁
とか、カッコいいサブタイつけてみようかな。
僕は、親父の背中を追いかけるような生き方をしなかった。
常に親父は越えるべき壁として目の前に聳え立っていて、俺のやることは認められないこと続きで、いつか越える、いつか認めさせる。いつか、ぐうの音も出ないほどの洗礼された物を見せつけたいという、反発が原動力でした。
これを叶えんとして生きていたといって過言では無かった僕の反骨精神の源泉は、大学で初めて行った外部公演のお見送りにて、呆気なく枯れてしまうことになったのでした。
外へ出ると、母がすぐさま呼び寄せてきた。その傍らにいた父は僕の脚本における処女作とも言える『愛を讃える歌』について、僕が書いたのを疑われるほどに褒めて頂けてしまいました。
そう、反発する心を糧に進んできたものが、もしも呆気なくそれを失った時の事を皆さんは考えたことはあるだろうか。
もし、そうなったとき、自分でも驚くほどの浮遊感を味わう事となる。
僕自身がそうだった、というあくまで個人的見解だが、失望感と浮遊感に差異はあまり無いでしょう。
そうした感覚の中から、次の目標設定を見つけ出そうと探し始めたのが、追いかけたい背中に繋がりました。常に進化していく者、大きな事を成し遂げ逝去した者など、超えられない壁を見つけると自身が歩み続けて行く事に行き止まりを作らずに済むという結論に行き着いたんです。
追いかけたい背中を追いかけた結果、追い越したかという評価は観衆が決める物ですし、自身はそこへ挑む事をやめない限り、課題に困らないという構造が保たれるので、僕はそこへ挑む事を始めることにしました。
易い回答なのかもしれませんが、僕を突き動かす根源には常に
寺山修司、アルトー、そして新進気鋭の小劇場の演出家全てに対抗心を燃やすというのは、強く意識しています。
小さな目標を大切にする方もいらっしゃいますが、僕はジャイアントキリングを思い描くことで燃えるのかもしれませんねw
2本目はここら辺で。
では、また。