『若き見知らぬ者たち』が抱える構造的欠陥と、観賞中に退出した理由。

 筆者は内山拓也監督の前作『佐々木、イン、マイマイン』をとても肯定的に捉えたので『若き見知らぬ者たち』にも一定の期待を抱いて公開初日に見た。正確にいえば、10月11日公開の他の映画タイトルにさほど魅力を感じなかったため、結果的に優先順位が高くなった。

動画の予告編くらい貼りたいけど可能なのだろうか。

 いざ『若き見知らぬ者たち』に向き合ってみると、主人公(30歳前後の男性)が、認知症になった母親を介護する苦労が次々と積み重ねられていく映画であると分かる。そういう物語を見せられる映画だ。笑える要素は完全に排除されているので、まだ見ていない方は気をつけた方が良い。

 主人公に同情を集めるためのシーンを手を変え品を変え提示され、観客は様々な「うんざり感」に到達することになる。「この状況を変えてくれ」という思いで主人公と観客を一体化させることには成功していると言える。

 しかし主人公は絶望を受け入れること、その痛みに耐えることしかしていない。そうすることしか出来ないほど過酷な境遇であることは描かれているが、それゆえこの映画には構造的欠陥が残されてしまっている。

今作の構造的欠陥

 主人公が、自治体なり国なりの公的な支援を求めようとする描写が一切存在しない。かかりつけの病院に行く場面があるが、そこでも医師から説明を受けるだけで、主人公の態度は「早く帰りたい」と言わんばかりである。母親の病状(惨状)をより正確に把握してもらおうと言葉を尽くす様子はない。

 母親のひどさを強調する(展開を入れる)ためなのか、病院の帰りがけに会計している主人公は、自分の1メートル後ろに座っていた母親が独りで病院を出ていく事にすら気付かない。「ああ、もう!」と言わせたい(思わせたい)からといって、認知症の母親から目を離し、気付いたらもういなかった!という展開はさすがに陳腐である。

 助けを求めようとしない主人公によって、社会的支援と主人公家庭との間にどれくらいの距離があり、支援を得るためにどんな障壁があるのかがまったく見えてこない。これこそが今作の構造的欠陥だ。  

 内山拓也監督は自身の介護体験を今作に色濃く反映させているそうだが、その事がむしろ、この映画が描くべき範囲をとても狭くしてしまった要因なのではないかと推測する。

 主人公は、なけなしの賃金を得るための肉体労働をしつつ、その上、死人のような顔で接客するカラオケスナックも営業を続けており、それが終わって帰宅すれば認知症の母親が家をめちゃくちゃにしている。主人公は負のスパイラルから脱する事ができないように見える…

 が、その悲惨さを強調したいのであれば、視野が狭まった状態で極度に受動的な主人公という枠組みを考え直すべきだったし、主人公がひたすら悲嘆にくれているのであれば、彼に最も寄り添っている(=都合の良い存在)看護師の恋人が主人公を救うために何らかの行動を起こしても良かったのではないか。

 そうすれば主人公は救われたのだからそうすべき!と言いたいのではなく、そういう作劇的アプローチによって主人公と社会との断絶の度合いを作中で表現しないと、この映画が付帯するべきメッセージ性を獲得できないからである。個人的な問題、とてつもなく不幸だった若者の物語に終始してしまうのだ。

 内向きになり、見えてる世界が極端に小さくなり、世界のどこにも希望がないように感じる主人公。それ自体に問題があるわけではない。そういう人物に物語的な補助線を引かないことによって構造的欠陥が残ってしまっている。

 近年の日本映画『マイ・スモール・ランド』を連想した。あの作品は難民として日本に流れ着いた家族が、日本社会に文字通り拒絶され、ありとあらゆる自由を奪われていく物語だったが、その作劇過程で日本社会の構造的問題をしっかりと表現できている。主人公一家の願いは次々と踏みにじられていくが、そこにどのような要因(法律、日本人の差別意識、etc.)があるのかを描いていた。だからこそ観客は悲しみや怒りを共有することが出来たし、フィクションの中の登場人物を現実社会に実在しているかのように感じられたのだ。

 映画『若き見知らぬ者たち』にはそういったアプローチがない。むしろそういうアプローチを捨てているのだとさえ確信する。内山拓也監督が最優先で描こうとしたのは、ヤングケアラーとして生きる主人公の絶望だったから。その優先度設定によって欠落した要素を無視できないのだ。

耐えきれず途中退出した理由

 このエントリのタイトルにも記したが、筆者はこの映画を最後まで見ることができず退出した。非常に残念だし、ある意味では恥ずべき行為でもある。そしてそんな自分がこのようなエントリを残している事で恥の上塗りをしている可能性も否定できない。

 退出した理由は、ここまで述べてきた構造的欠陥とは別のところにある。なんともややこしい書き手だなと思われても仕方がないが、それでもその理由について、自分の意見をちゃんと表明しておきたい。

 いまさら感はあるが、この先には『若き見知らぬ者たち』の中盤以降に起こる決定的な展開についてのネタバレが含まれる。それを防ぐために改行を重ねたりするつもりはない。

 この映画の主人公は理不尽な暴力によって殺される。正確にいうと、筆者は「理不尽な暴力によってこの主人公は殺されるんだなと理解した瞬間に劇場から退出した」ため、主人公の死の瞬間を目にすることすらしなかった。

 あの場面で筆者が抱いた感情は怒りに他ならないが、その怒りの矛先は、残念ながら、この映画を製作した内山拓也監督である。こんな映画、筆者は見たくなかった。「こんな映画」という表現にどのような意味があるのかを可能な限り記す。

 主人公は煉獄のごとき日々の中で微かな現実逃避のチャンスを得る。旧友の結婚式だ。そこに参加し、交流を再開できたのなら、主人公は何らかの救いを得られたのかもしれない。しかし主人公は結婚式(の二次会?)に行くことすら許されない。脚本がそうさせない。

 結婚式二次会が行われている頃、(なぜか)主人公はワンオペで営業を続けているカラオケスナックの締め作業をしている。ネオン看板を店内に撤去し、友人たちの元へ向かおうとしていると、酔客が3人スナックへなだれ込んできて勝手に注文しはじめる。主人公は閉店した旨を何度も伝えるが酔っ払いの耳には届かない。態度を変えない主人公に苛立ちをおぼえた酒カス軍団は主人公の頭にビール瓶を叩きつける。主人公の頭部から尋常でない量の血が流れ出る。

 酒カス軍団は主人公を店から無理やり連れ出し(なんで?)一緒に飲もうぜー!とか言い出す。主人公は隙を見て逃げようとするがそれも叶わず、アル中3兄弟からリンチされる。コインパーキングの片隅で暴行され続ける主人公、さきほどの流血っぷりを踏まえると、このままでは死んでしまうだろうと容易に想像できる。

 そこにパトカーが現れる。制服警官が2人降りてきて、アル中ズのリンチ行為はそこで止むことになる。警官たちはアル中ズの身体検査を始めるが、頭部から激しく流血した(はずの)主人公に対しても応急手当するわけでもなく、喧嘩の当事者として扱い、3馬鹿と同じような取り調べをする。

 この時点で「なんだこの映画は」と呆れてしまったのですが、その次に決定的な描写が訪れることになる。

 映画の序盤、公衆トイレで用を済ませた主人公が、警官2人による職務質問を見かける場面がある。職質の相手は主人公と大差ない年齢の男性。ズボンのポケットの中身を見せろ/見せないという会話、義務だ権利だなんだかんだという会話が続く。おそらく「ロクでもない警官ですよ」と観客に思わせるための会話だ。

 主人公は今から乗ろうとしていた自転車を駐め、警官たちの言い分に抗議する。警官2人は一見冷静さを保っているのだが、言葉の端々からはくだらないプライドと市民を見下す侮蔑感がにじみ出ている。その言葉に対し、職質されていた男性だけでなく主人公も異議を唱える。最後は職質されていた男性が「だったら(ポケットの中身を)見りゃいいじゃん。見せてやるよ。ほら、さっさと調べろよ」とブチギレ、そのシーンは主人公に特別な影響を与えずに終わる。

 と思ったら。その職質シーンが終盤の主人公リンチのオチに関わる伏線のために存在していたと解る。リンチを制止した警官が、リンチ被害者=主人公の顔を見て「おまえ、あの時の(職質を邪魔した奴じゃないか)…」とつぶやくのだ。

 頭部からの流血についても無視され、喧嘩して警察様の手をわずらわせる迷惑野郎として扱われる主人公。立たされ、コンクリ壁に両手をつきながら、ささやくように、祈るように、主人公は無実を主張し続ける。その様子に警官の1人が激昂し、主人公をその場にねじ伏せて、クチに布を押し込んで黙らせようとする。

 そこで筆者は映画を見るのを止めた。

 まず、序盤の職務質問シーン自体が必要性もないしテーマにもそぐわないし、主人公のパーソナリティを表現するには全然うまくいってないのだが、あれが、ショッキングでクリティカルでブルータルなクライマックスのための伏線に過ぎなかったと気付いた瞬間、この映画を見続ける事が不可能になった。リンチにつながる酒カスいちゃもんシーンも見るに耐えないのだが。

 警察官という職業、特に日本の警察には日本特有の有害性があるという事は筆者の中に共有ずみの認識ではある。日本の警察官が日本に住む一般市民を暴力によって死にいたらしめる可能性も否定する気はない。

 しかし今作の警察描写はあまりにもお粗末だ。稚拙で説明不足で、偏見と悪意に満ちている。特に怪我人=主人公への対応は、いくらなんでもありえないだろう。

 映画序盤で主人公と警官2名の間の因縁を描くことで、不自然な対応と理不尽かつ悲劇的な展開に整合性とリアリティをもたせようとした結果、失敗に終わっている。制作側の意図があまりにも露骨で、なおかつそこには誠実さが決定的に不足している。主人公が死ぬという展開ありきで逆算しているから、3馬鹿や警察官たちが物語の奉仕者にしかなっていないのだ。彼らを演じた俳優陣は、そこに自分を投影できただろうか。

 悲劇という枠組みの中で「介護ならびにヤングケアラーの重篤な問題性」というテーマと、「理不尽な暴力によって蹂躙され沈黙を強いられる弱者」というテーマが有機的に結びついていない。悲劇が積み重ねられていく過程で、そのミスマッチが有耶無耶になって提示されている。そこには稚拙さと不誠実さ、どちらもが存在していると言わざるを得ない。

 『若き見知らぬ者たち』という映画について筆者が到達した評価は以上の通りである。

 主人公の死後、彼の周囲にいた恋人や友人、母親などがどのようなリアクションを見せるのかは分からず終いだが、そこを見届けられなかったことについてもさほど残念に感じられない。

 部分的に登場していた主人公の弟が総合格闘技の選手として大きな試合に出場し、この映画のクライマックスでは試合シーンをじっくりしっかり(2ラウンドまるごと)見せつけるそうだ。主人公の弟(というか新たな主人公という位置づけらしい)が勝利するのか敗北するのかも分からない。

 内山拓也監督が選んだ作劇によって、彼が選ばなかった作劇について強く意識する結果となり、それがこの映画に対する評価を(自分の中で)決定づけることになった。当事者性を強く反映させた脚本だけに、こういう構図、こういう弱点を含有する映画になってしまったのだろうなという予測は可能だし、この思考プロセスを経て『若き見知らぬ者たち』と内山監督に対する怒りは解消できた。

 内山監督の次回作には期待したい。しかし怖くもある。

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