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音楽バンドとソロ活動と代替可能性


はじめに、きっかけ


バンドではワンマンやるくらい集客力あるのに、ソロのブッキングライブ参加だと片手くらいしか集まらない人が多いの、何でだろうとずっと思っていた。
単純にバンドの(人に声を掛けることのできる)人数の多さと音の多さの問題かな、と思っていたけれど、
どうもそうではなさそうなので、現時点の考えをまとめておく。

音楽評論家では無いので、参考(敬称略)に偏りが出る事、ご容赦頂きたい。



結論、これから話すこと


タイトルの通りだが、
音楽バンドは(ソロ活動をしているメンバーを含む)メンバーの代替可能性があり、バンドとしての存在(音楽)に価値がある。
ソロ活動は代替不可能であり、活動している個人に価値がある。

つまり、ソロ活動でバンド曲のアコースティックver.しか演奏していなかったとしても、
バンド∋ソロ(バンドがソロ活動をしている人をメンバーとして含んでいる)なのでは無く、
バンドとソロは独立した別の活動形態なのだ。

バンド+ソロはA∪B



音楽バンドの代替可能性


応援しているバンドがメンバー間の音楽の方向性の違いを理由に解散してしまうと哀しい。
しかも結構な頻度で起こる。
まあ、音楽性の違いによる解散は前向きな意味合いのものも多いので、一概に悲しんでばかりいるのは失礼なんだけれども。

そもそも何故音楽の方向性の違いで揉めるかと云うと、人数が少ないからだと思う。
オーケストラ等、元々が大人数を前提にした形態とは異なり、少ない人数で個性がぶつかり合いながら作り上げていくのがバンドサウンドで、それが機能しなくなった時を「方向性の違い」として表現されるのだと思う。

ここでいう代替可能性とは、メンバーが入れ替わってもバンドとして継続していける事である。

音楽バンドでは無いのだが、AKB48とかを想像してもらうと分かりやすい。
グループとしてのサウンドや方向性が先に示されており、中のメンバーが変わってもグループとして継続している。
究極的には会社とか川とか秘伝の鰻のタレとかと存在原理は同じである。

代替可能性でもバンドの人数の少なさが効いてくる。
少ないが故に、交代した際にサウンドを継続できない可能性がある。少数精鋭の企業経営である。

ベースやドラムが交代する際は、元のバンドの音楽に理解が深く、それでいて単なるフォロワーではなく新しいサウンドの提供者であることが望ましい(ex.plenty)。

歌を歌うバンドでボーカルが交代する際はかなり音の個性に影響が出る。

作詞作曲以外でボーカルが交代して上手くいっているのが水曜日のカンパネラで、作詞作曲含めて交代したのに継続できている(凄い)のがヒトリエだと思っている。
他の良い例をご存知ならコメントで教えて欲しい。聴くから。

少数精鋭で継続するのも難しいし、大人数をまとめて行くのも難しい。

因みに音楽性の違い以外の解散要因は、自然消滅、不祥事からの活動休止、健康上の理由(死亡含む)、辺りだと思っている。

代替不可能な音楽バンド


上記でバンドの代替可能性について述べたが、代替不可能なバンドも存在する。
Ryu Matsuyamaとかトクマルシューゴとかボン・ジョヴィとか、個人名がそのままバンド名に成っているような人々である。
彼らは音楽バンドが個人のバックバンドとして存在しているので、フロントマンが居なくなるとバンドとして成立しなくなる。

逆に言えば、フロントマンさえ残っていればバンドサポートとして他は幾ら変わってもバンドとして継続することはできる。
吉田ヨウヘイgroupは吉田ヨウヘイ以外脱退しているが継続している。

あまり数は知らないけれど、僕が知っている詩人バンドは全てフロントマンが詩人で自分で書いた詩を詠んでいたので、代替不可能だと思っている。
全く同じサポートメンバーでもフロントマンを変えたら、それは別の詩人のバックバンドだ。

個人は代替不可能である


上記で述べた通り、個性が団体では無く個人に依存している場合、代替不可能になる。

自明ではあるが、ソロ活動は個人なので代替不可能だ。
全く違うジャンルの曲をやったとしても、個人を軸に継続性を見るので、同じソロ活動だと認識される。

結局集客力とは何なのか

ライブは一義的に音楽と空間にお金を払っているのだが、
ソロだと個人(推し)に課金している感覚で、
バンドだと団体に課金している感覚が付与される、
気がする。

結局はフォロワーが個人に付いているか、バンドに付いているかなのかもしれない。
バンドだと人数が多い分付ける人の種類も増える。


最終的に言いたいことは、

行ける時にライブ行こう。



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ゲンヤ(詩人)
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