第31話「本当の気持ち」
「桜谷さん!!」
「!」
桜谷は目の前の光景に驚いた。
次の日、朝、登校中に君野が車が行き交う道路に突然飛び出して反対側の歩道からこっちに目掛けて走ってきたからだ。
-危ない!!-
誰かのそんな悲鳴に近い声が聞こえた。
車のクラクションとキキッという急ブレーキ音がする。
幸い車は停まってくれたが、君野はそのまま桜谷に抱きついた。
彼が人懐っこく、元気な大型犬がはしゃいでいるかのように頬を顔にくっつけてくる。
しかし、桜谷はその危ない行動を戒めるように
彼を体から離して注意した。
「危ないわ!どうしてこんなこと…。」
「お願い大好きって言って!僕のこと好きって言って!!」
「どうしちゃったの?最近本当に変よ?」
「堀田くんの元に行かないで…。ごめんね…ごめんね桜谷さん…!わかんないけど涙が止まらない…!僕どうしちゃったんだろう…!」
桜谷はしゃがんで、君野に目線を合わせた。
過呼吸になりそうな彼の背中をさすり、
一緒に深呼吸をするように促した。
「落ち着いて。今日は学校行くのやめましょう。」
「僕離れたくないよ!!学校行く!」
「私の家に戻りましょう。ね?」
「桜谷さんの?行く!!」
君野はそう聞いた途端、ぱあっと顔を輝かせた。
「ええ。私もちょうど、君野くんに用事があったから…。」
「うん!いいよ!楽しみ!!でも堀田くん心配しないかな?」
と、その場でぴょんぴょんと跳ねた。
「うん。大丈夫。ちゃんと電話しておくから。」
と、私はいつになく上機嫌に彼の手を取って、一緒に歩いた。
「ねえ君野くん、手紙私に送った?」
「手紙?なんの?僕覚えてない!」
「お母さんに切手貼ってもらった?」
「わかんない!」
と、考えることもなく素早く答える。
桜谷も終始ハイテンションで話す君野に微笑む。
この幼児退行が昔の彼になろうとしているのなら
昨日までの憂い気の顔はどこにもない。
ちょっと幼すぎるが、でも
きっと儀式が成功すればきっと…。
と、来た道を戻り、桜谷の家に到着。
まだ幼児対抗してる彼は
呑気に学校や彼の親に連絡して桜谷を待つ間
桜谷からもらった大福を頬張り、口周りに粉をつけてもぐもぐと食べている。
一方で、部屋に戻った彼女は机の1番下の引き出しから頑丈なロープを取り出す。
「ねえ、君野くんマジックしない?」
「マジック?書く方の?」
「手品の方よ。イリュージョンマジック。ほら、テレビでよく見るでしょ?大きな箱に入って、その中の人が消えちゃうマジック。あれ、私できるのよ。」
「そうなの!やってみたい!」
と、君野は嬉しそうに答えた。
桜谷は、この君野ならそう言ってくれると
期待していた。
その言葉ににっこり笑い、君野の頭を撫でる。
すると、彼はその手に吸い付くように頭を擦り付けてくる。
そして桜谷はそのままベッドのシーツやまくら、マットを取り外し
中の木板を取り外す。
そこには人一人分入れるスペースが。いつみても冷たい棺桶のよう。
桜谷はその作業中にふと窓辺に目をやると
そこに天使の置物があった。
丸いのっぺらぼうの顔だがなんとなく目が合う。
「…。」
いいの。今日はここにあっても。
ここにあってももう平気なの。
でも
堀田くんがまるでこの置物に念をこめて私に攻撃しているみたいに胸がドクドクする。
いつもの頑固なお節介をする彼の顔が浮かび、
まるでそんなことするべきじゃないって
太眉を動かしてるみたい。
あなたは優しい。
でも、やっぱり君野くんを目の前でビンタした時私の最終警告を聞いておけば
あなたさえも巻き込むことはなかったはず。
「ごめんね…。」
「なにかいった?」
「ううん。なんでもないわ。」
桜谷はそう、君野に笑顔をむける。
「…。」
きっと、これを心から割りたいと思った時が
呪いのキスの発動になると信じている。
そうすれば、今よりはきっと良い状況になる。
これでいいのよ。これで…
もがいたってどうせ沈んでいくのだから。
今過去の彼を愛さなければ、
私は今の君野くんを救うことも、愛することだってできない…
「救う…。」
と、脳裏にあの手紙の走り書きが浮かんだ。
あれは。何だったんだろう。
桜谷はロープを用意する。机の引き出しの一番下から麻縄を取り出した。
「え?なに?」
君野はそれを持って目の前にたつ桜谷に戸惑っている。
「手足を縛るの。大丈夫。すぐ終わるから。」
「ええ、やだ。」
と、君野はそう駄々をこね始めた。
「どうして?これから君野くんは瞬間移動して、気づいたらそこのタンスからでてくるの。面白いでしょ?」
「やだ!」
と、首を横にふる。
あれ?幼児退行してる君野くんは昔の彼じゃないの?
それとも幼児退行してる分、ただのイヤイヤ期みたいなもの?
「マジックしよう。ちょっとだけだから我慢して。」
と、
持っていたロープをさりげなく彼の腕に巻いてみるもそこからスルッと抜け出してしまう。
「ねえどうしてそんな事言うの?」
「イヤなものはイヤ!!イヤイヤ!!」
と、酔うのではないか?というくらい首を何度も足をばたつかせる。
桜谷はそれにため息を付く。
これはもう、幼児退行から戻った時を狙うしかない。
あまり時間はないのかもしれない。
最近本当に幼児退行する頻度がひどいのだ。
これでは本来の君野くんが飲み込まれて、幼児退行してる彼が表になってしまう。
そうしたら、彼は長らく病院から出られなくなってしまうかも…
桜谷はそう辛抱強く、彼の幼児退行がおさまるのを待った。
そして、15分くらいが経過し、桜谷が彼の母に
今私が預かっているので大丈夫です
とメッセージを送った時だった。
「…あれ。ここどこ?」
と、ようやく正気を取り戻したようだ。
「君野くん…。」
私は彼に再び後ろから覆いかぶさった。
「え!?なんで僕…ここ、桜谷さんの部屋だよね?」
と、驚きながら辺りを見渡す。
「また例の症状がでていたの。覚えてる?さっき赤信号の道路を飛び出して私に抱きついてきたこと。あまりにも挙動がおかしかったらからここに連れてきたの。」
「そうなんだ…。僕、やっぱり変になってるよね…迷惑かけてごめんね。桜谷さんの勉強時間も奪うことになるなんて…。」
「いいの。好きでいるから。でもどうにかしなきゃね。」
「…ここ最近怖い夢をみるの。」
君野は先程とはうってかわって、両膝に手をおいて服のしわができるほどズボンの布を握る。
その顔は深刻そうに俯いていた。
「どんな?」
「目が一つで、歯の多い黒い塊のバケモノに追いかけ続けられる夢。いつも口がアップで終わるんだ。食べられてるのかな…でも歯が鋭いのに全然体は痛くないんだ。」
「いつから?」
「桜谷さんの誕生日が終わったあたりから…。」
「…。」
それもまた幼児退行と同じような精神的なものなのかな。
そんな暗い雰囲気のなか、
桜谷はふとあの手紙を机の引き出しから取り出して君野に突き出した。
「これ、見覚えない?」
「なにこれ…手紙…あ!これ、僕の部屋にあったやつだ。」
「どこにあったの?」
と、見覚えがあると答える彼の顔に近づき、その手紙のために肩を並べる。
「幼稚園の頃の思い出の入った段ボールの中。小学生のものもあるけど、画用紙の作品の中にはさまってた。でもなんでここに?」
「自分で投函したんじゃないの?これ、切手もついているし、このスタンプをみると、最近郵便局を経由して届けられたってなってるわ。」
「本当だ…あれ…。」
と頭を掻いている。
よかった。本人なのは間違いないようだ。
「でも、切手貼ってポストにいれたなんて…いつもの健忘症かな…。」
と、苦笑いする。
でも今の時代、わざわざ切手を貼って投函するなんて余程の思いがあるはず。
と、桜谷は過去の彼が私にこの手紙を見てほしくてやったのか?と考えた。
「そうそうこの手紙だ。この内容覚えてる。」
「これ、私よね。」
と、その鉛筆で描かれた2人の糸人間のイラストを指差す。
「昨日教室で話したね確か。ああそっか、これのことだったんだ。僕達本当に恋人同士だったんだね。」
と、君野は照れくさそうに笑う。
その姿におもわず桜谷もにこやかに笑った。
まるで二人で訪れた最高のデートの思い出でも振り返るようだ。
「でも、この走り書きは覚えてる?」
と、桜谷は紙面にある
‐桜谷さんを救いたい‐
を指差す。
「…うーん、なんだろう…でも…。」
と、言うと、彼の唾を飲み込む音が大きく聞こえた。
ゴキュッと、まだ平らな喉仏をならし指を膝の上でトントンと動かし
考えながらこう答えた。
「僕、昨日ずっと考えていたんだ。なんで桜谷さんの言葉で泣いたんだろうって。その、桜谷さんに対して好きでいなければいけないっていう気持ちとか、なぜこうしなかったんだとか、後悔が襲うんだ。」
「うん…。」
「でもやっぱりわからないんだ。何にも覚えてないから…。全部憶測でしか言えない。でもこの救いたいって気持ちはなんか、しっくり来たかもしれない。」
「私が健忘症にしたのに?このベッドにあなたを入れたのよ。そして今も私はあなたをここに閉じ込めようとしている。」
「!」
君野はその言葉に驚いたように桜谷の顔を見る。
先程までの顔はウソのように、その顔は引きつっている。
「なんで…?」
「幼児退行も、この手紙が来たのも昔のあなたが私を呼んでいると思ったから。みて。こんなにハートを付けてくれているのよ。この花束だってあなたが私と公園で出会った時にもらったものなの。笑顔の君に似合うと思うよって、泣いている私に渡してくれたんだもの。」
と、うっとりしながら君野のもつ手紙の花束をなぞる。
しかし、それを聞いた君野の心中は穏やかではない。
「僕をこのベッドの入れて過去の僕に戻すってこと?」
「そう。あなたの幼児退行は過去の君野くんの叫びなの。早く会いたいって私に言っているの。」
「そんなわけない!僕は僕だよ!もう覚えてない過去を掘り返しても何もでてこないはずだよ?…もしかして、だから僕が好きなの?」
「ええ。ずっとそうだった。私最初から過去のアナタしかみてない。君野くんが私を突き放したから、今のあなたを何も知らないのよ。」
と、急にあくどい顔で話し出す桜谷。
その豹変ぶりに君野も呆気にとられ放心状態で、隣の彼女をみつめている。
「…私ね、すごい力を手に入れたの。堀田くんのわけわからない超人みたいなもの、私も持ってるの。君野くんにキスをすると、翌日君野くんから私に関する記憶、存在までもが消えてしまうの。それをあなたを健忘症にしたときからずっと繰り返してる。それを利用して、私はアナタの恋人だって嘘をついて一緒にいる。翌々考えたらおかしいでしょ。誰からも聞かない彼女が突然現れるなんて。」
「…確かに誰も言ってなかった…。」
「そしてこのベッドで今のあなたを過去に戻そうとしてした。健忘症がひどくなって、サッカーしていた頃に戻らないようにしているの。君野くんは私に都合の悪いことをキスで消され続けている。あなたが救いたいと思うのは、私が好きだから。操られているから。つまり「救いたい」じゃなくてそれは「依存」なの。」
「…。」
君野は呆気にとられ、放心状態で口を半開きにしている。
「ここまで言われて逃げたくなった?私ずっと疑問だったの。あなたがこのベッドに閉じ込めた帰り、捨て日の余白よ。あなたが明日になるまで消えない記憶がありながらなんで誰にも助けを求めないのか…。」
「…っ…。」
君野は途端に涙を流しはじめた。
桜谷はそんな君野を冷たい表情でみている。
君野は下を向き、涙を拭くわけでもなく自分の気持ちを整理するようにこう答えた。
「…わかったかもしれない。僕が救いたいって思ってるの…こういうことかも…。」
「だから、依存なのよ!君野くんは私を救いたいなんて思ってない!」
「この手紙みたいにきっと桜谷さんが好きだったんだ!でも嘘をついてまで僕がサッカーをとったから後悔してるのかもしれない…。」
と顔を上げる。
大粒の涙がこぼれ、桜谷はその状況に動揺した。
しかし、君野はそのモヤの中にある桜谷の気持ちを掴みたいと畳み掛けるように、強い言葉を投げかける。
「やっぱり僕後悔しているんだよ!そうでしょ?だってこんなにも桜谷さんが好きだったんだもの!この手紙に走り書きをしたのはきっと僕が傷つけた大事な物を取り戻したいからなんだよ!」
「だから何よ…それでチャラになんかならないわ。私は傷ついたのよ…。アナタを許したりしない。私は過去の君野くんが好きなの。」
「今の僕を見て!!!!」
と、君野が大きな声を張りあげてそう答えた。
それに桜谷は驚いてその口を閉じる。
こんなはずじゃない…
だってそんなふうに考えたらあまりに
私に都合が良すぎる。
全部、全部
自分の弱さに負けた結果がコレだ。
事故前だって、ベッドに閉じ込めるまでになんで君野くんの話をちゃんと聞こうと思えなかったんだろう。
健忘症になった後も
彼のことを理解しようとも思わなかったら、怖くてできなかったから
ここまで来てしまったことも…
桜谷の後悔が降り積もる雪のように頭や肩に山を作る。
私はもう雪の冷たい氷の中にいる。
今更希望的観測を受け入れ
心をとかすわけにはいかないのだ。
「今の僕を見て…。」
君野は再びそう涙ながらに訴え、彼女の冷たい手を強く握る。
その目は力強く、桜谷を包み込もうとする優しさも兼ね備えていた。
なんて強い人なんだろう。
こんなに辛い状況なのに
どこにこんなに他人のことを想える力があるというのか。
桜谷は眩しい君野の光に
自身に降り積もった雪が溶けていくような感覚になっていた。
しかし、それでも
己の心の弱さが君野の言葉を打ち消すように
重い鎖は簡単には外せないようだ。
「私、今更自分の行動を正当化できない…。だって沢山酷いことをしてきたのに…。私、あんな悪魔になるって誓ったのに…。都合よく捉えることなんてできない。だって君野くんからサッカーを奪ったのは本当だもの…。あなたの未来を夢を全部奪ったのよ…。」
桜谷はそう目に涙を溜めて答える。
「正当化していいよ。だって僕桜谷さんから愛情を沢山もらってる。今だってこんな誰にも相手をしない僕を見捨てず支えてくれているってことが答えだよ!堀田くんだって、ずっと桜谷さんが支えてくれているって言ってたんだもの!」
と、君野は桜谷の手を握った。
「僕は桜谷さんの愛を受け取ってるよ。それが過去とか今とか関係ない。これが僕の未来だよ。桜谷さんといる今が、僕の新しい未来なんだよ?」
枯れるような消え入る声で、大粒の涙を流さながら答える。
目から鼻から精一杯の思いをこぼしながら
一生懸命、彼なりの言葉で力強く訴えた。
桜谷は予想外の展開に面食らっている。
彼はベッドに閉じ込められる恐怖を受けながらも
私を思っていた?
私との未来を考えていたから
救いたいから、その孤独な心に留めておいてくれていたの…?
頬に流れる涙が止まらない。
私はそんなふうに思ってもいいのだろうか?
彼にどんなことをすればありったけの愛情を返すとことができるのだろう…
だって…
「いいの?一生、私にキスなんかできないわ。キスをしたらまたアナタは明日私の存在ごとすべて忘れてしまうのよ。」
「…。」
「君野くん?」
目頭を押さえたまま、動きを停止させた君野に
桜谷は君野の顔を覗き込み
その顔に触れようとした時だった
「…全部うそだよ。」
「え?」
と、君野は突然顔を上げ桜谷を見上げた。
その冷たい言葉に桜谷は一瞬ビクッとなり手を引っ込めた。
続く。