そろそろ皆さんお待ちかね、東京ロッカーズについて集中的に書いてみようと思う。 1978年3月半ばのことだ。 ラモーンズ・ファンクラブのスタッフだという少女達がリハスタジオを訪ねてきた。来る3月30日屋根裏で開催する「ブランク・ジェネレーション」のフィルムコンサートに招待したいというのだ。 出掛けてみた。 フィルムは「ブランクジェネレーション」だけでなくストラングラーズなどのプロモーションフィルムの上映もあった。 ミラーズというバンドがゲストで出ていてイベントの後で紹介
俺が意識的にジャマイカの音楽を聴き始めたのは1979年の夏、ロンドンのレコーディング、ライブツアーから帰ってからだった。 音楽的構造物を分解し再構築するダブ、その上に自分のメッセージをのせて新たな音楽として近隣の住民やオーディエンスに届けるDJスタイルなど、彼等は様々な音楽活用法を実現し生活にとりいれており、その一つ一つが斬新だった。 レゲエを聴き漁った。といっても彼らの音楽をそのまま模倣することはなく、彼等が独自のスタイルを獲得するに至った道筋、その歴史に興味をひかれた
拾遺 その参「河原者志願」 ジャン・ジャックは別れ際にあることを提案した。 「モモヨ達のいる状況はなかなか難しそうだから、何とかしてサーキットルートを組むことを考えてみちゃどうだい?」 「サーキット?」 そのことは何度かジャンから提案されていた。一度に500人1000人を相手にするのでなく50人100人を相手にしてそれを繰り返すのだ。 今でもそんなに大きなライブハウスをまわっているわけではないし声がかかれば新しい場所には行かせてもらっている。だが、真剣にライブハウスや