東京ロッカーズ異聞
そろそろ皆さんお待ちかね、東京ロッカーズについて集中的に書いてみようと思う。
1978年3月半ばのことだ。
ラモーンズ・ファンクラブのスタッフだという少女達がリハスタジオを訪ねてきた。来る3月30日屋根裏で開催する「ブランク・ジェネレーション」のフィルムコンサートに招待したいというのだ。
出掛けてみた。
フィルムは「ブランクジェネレーション」だけでなくストラングラーズなどのプロモーションフィルムの上映もあった。
ミラーズというバンドがゲストで出ていてイベントの後で紹介された。話しているうちに彼等がメグ(ミスターカイトのジーン)の友人であることを知った。俺は16歳の頃、すでにメグ(ジーン)と出会っていた。そこで俺は早速4月15日北区公会堂で開催するコンサートに出ないか?とドラマーのヒゴくんにたずねたんだ。
「メグ達(ミスター・カイト)も出てくれるんだ」さらにそう言った。
後の「Change 2000」編集長、小嶋さちほがやっていたミニコミ、「Rockin Doll」のスタッフが中心となって開催したコンサートだった。
といってどんなに小規模であろうとミニコミのスタッフにPAの手配、セッティングなど公会堂規模のコンサートの仕込みなどできるわけもなく、ご想像どおり裏方(実際)のハードワークは俺達がこなすしかなかった。
深夜PA機材をヤマハ池袋東ショップに返却しおえた時は全員ボロボロ。報酬は他の出演者と同じく幕の内弁当ひとつだった。
とそれはともかく、屋根裏でライブを終えたばかりのフリクションも来てくれたっけ。
てなわけで、偶然だけど、俺達、ミラーズ、ミスター・カイト、フリクションの4バンドが初顔合わせ。これにエスケンが加わればいわゆる後の「東京ロッカーズ」になるわけだが、それには六本木S-KENスタジオのオープニングを待たなければならない。
4月15日の北区公会堂の後の半月ほど、俺達は5月に控えるパンタ&HALとの関西ツアーにそなえ、リハスタジオにこもって準備に大わらわだった。ツアーなんて今時めずらしい話じゃないけれど78年春まで俺達・紅蜥蜴は関東地方の外へ出たことがなかったんだ。遠くといってもせいぜいが福生のチキンシャックであったり宇都宮の仮面館あたりだった。
ある意味で今回のパンタ&HALとの関西ツアーが初めてのツアー経験だった。ツアーは5月1日~5日まで。
まず5月1日サーカス&サーカス、パンタ&HALと一緒。
次に動員が不安だったが俺達ワンマンで2日3日と磔磔。
4日が神戸でパンタ&HAL他と。
5日が京大西部講堂「New Wave Show」でパンタ&HAL他と一緒だ。
そんな感じの一週間近いツアーだった。あやぶんでいた磔磔の動員も上々だった。とにかく、いい感じでツアーを終えることができた。
◎レレッ!わすれてた!◎
関東圏を出たことがないと書いたが、内田裕也さんに紹介された仙台のナイトクラブみたいなところに箱バンで半月ほど詰めていたことがあったっけ。細かい日時は不明だけど1975年頃の話だとおもう。いいギャラもらったはず。↑調べたら1976年のことだった。
同じ年の8月13日には、かの有楽町 日劇で開催された「日劇 ロックンロール・カーニバル」のオープニング アクトをつとめている。裕也さん絡みのイベント。カーテンが上がると同時にダンシングチームの皆さんがステージ最前列に出て足を振り上げて踊る、そんな演出。
有楽町 日劇「日劇ロックンロール・カーニバル」の出演バンドを以下に記す。紅蜥蜴、ダウンタウン・ブギウギ・バンド、安全バンド、内海利勝&マジック・ヒップ、柳ジョージ&レイニー・ウッド、トランザム、ルージュ。時代、だよね。
紅蜥蜴のメンバーはモモヨ、カツ、ワカ、ツネの4人。◎以上◎
ちなみにパンタ&HALとの関西ツアーがもたらしてくれたものは金銭的な成功だけじゃなかった。関西ツアーから帰って一週間ほどしてから紅蜥蜴ワンマンでのアンコールツアーはどうか?という打診があったのだ。むろん即答などできるはずもないが、これまでは考えられないほどに世界がひろがった、そう感じた。
紅蜥蜴の二度目のツアーだが秋に開催したいというのが関西側の意向だった。
そこで俺は「紅蜥蜴でもリザードでも主催者の意のままに名乗って何度でもライブはする、かわりに夏の間、S-KENで一緒にやっていた仲間達もツアーにつれていきたい」と申し入れた。これが東京ロッカーズツアーの端緒だった。いずれにしろ俺達は新たなフェーズに突入していたんだ。
1978年5月28日から六本木S-KENスタジオに集い、毎週小さなギグを仲間のバンド達と敢行するようになっていた。その流れの中でいつしか名前をLIZARDつまりリザードへとあらためていたのだ。
白状すれば俺自身にとってはどうでもいいことだった。俺は音楽を続けられればそれだけでOKだったんだ。
改名の事情についてはこれから話す。
関西から東京に戻って幾日かして件のラモーンズ・ファンクラブの一人、会長を名乗る少女から連絡をもらった。「会わせたい人がいる」というのである。その会わせたい人というのが田中唯士(後のS-KEN)だった。
紛らわしいが当時S-KENは5月28日にオープンするスタジオの名前だった。スタジオのオーナーはワーナーで洋楽ディレクターをしていた山浦さん。山浦さんと田中さんもバンドをやっていてバンドの名前もS-KEN。で、バンドの名前がいつしか田中唯士個人の名称になり、六本木S-KENスタジオはスタジオ・マグネットと名を変えた。
いやぁ、いま書いててもこんがらがる。まあ、夏のうちはスタジオの名前だったのが秋口からバンドの名前に転じて、いつしか田中唯士は消失し、S-KENはS-KENそのもの、ということになっている。しかし、あの夏の夜S-KENといえば六本木S-KENスタジオだった。この点にご留意願いたい。
六本木S-KENスタジオで「パンク仕掛け99%~S-KENスタジオ・オープニング・パーティー」が開催されたのは5月28日、なので5月20日前後の話だ。俺は例のラモーンズ・ファンクラブの少女達に案内され、例のS-KENスタジオで俺は田中さんと山浦さんに会った。そしてそこで夏の間の企画について相談されたんだ。オープニングパーティーに続いて夏の間、毎週日曜日に「Blow Up! Tokyo Rockers GIG」と題して5バンド程度が出演するGIGを行いたいという。無論スタジオの存在をアピールするためだが「協力してくれたらスタジオ代をかくやすで~」という話だったので誘いに乗った。ビールもおごってもらったしね。
オープニングパーティーに出演したのは、俺達の他にスピード、ミスター・カイト、ミラーズ、フリクション他。パーティーと言ってもいつもと変わらない。ただアルコールが入る、これが問題、当然荒れる奴も出てくる。山浦さんと田中さん、けっこうそのあたりで苦労したんじゃないかな。
次の「Blow Up! Tokyo Rockers! GIG」は7月からだ。なのでいましばらく余裕があった。で、俺と田中さんの二人はその時間を情宣(プロモーション)にあてた。業界に顔が効くのは俺達二人くらいだったからね。雑誌社、編集部をかたっぱしから訪ねて歩いた。その合間、疲れると出版社の応接室でソファーにもたれ紫煙をくゆらせた。
「えっ、いやでえ! フレンジーなんて絶対イヤだ!」俺は思わず声をあらげた。とある雑誌社のロビーだった。田中さんから「戦略上の相談がある」といわれて、その相談を聞かされたばかりだった。その相談というのは「バンド名をあらためないか」というものだった。
「紅蜥蜴は有名すぎる」と彼はいった。「この機会にバンドのイメージをあらためないか、できれば英語がいい。俺にアイデアがある。フレンジーというのはどうだ?」と田中さんは自信まんまんでいう。俺は気に入らなかった。フレンジーというのがヒッチコックの映画のタイトルであることを知らなければアイドルグループのような名ではないか。「俺はあのネクタイ殺人というのが趣味じゃないんだ。ヒッチコックだったらノーマン・ベイツ一択だね。それになんか犬の名前みたいだ、フレンジーって。絶対イヤ!」こう言って俺は拒否権を発動した。
で、バンド名だが、そのプロモ行脚のうちに「リザード」という名前を採用することになんとなく落ち着いた。なんとなく、だ。
そんなもんさ。
プロモーションをこなした後、俺達は自分たちの録音機材をS-KENスタジオに持ち込んで数日間のレコーディングにとりかかった。
ここでは4チャンネル・レコーダーにリズムセクションとベーシックなトラックを録る。ヴォーカルやシンセ、リード楽器などは、同じ機材を使って俺の部屋で録音、加工、ミックス・ダウンする。
いまからみれば貧弱な機材だが、録れる音にはそれなりに味わいがある。実際、この時に制作した音源は紅蜥蜴のアルバム「けしの華」のB面で聴けるが、ドラマー ツネが操作するムーグパーカッションコントローラーなどの音響効果も他に例のないものとなっている。位相エフェクトもいい感じだ。
そうそう、S-KENスタジオで録音している間、ミラーズやカイトのメンバーが様子を覗きに来ていて、彼等も、レコーディングをしてみたいので機材を貸してほしい、そんな話になった。しかし機材だけでどうなるもんじゃない、なにしろ使い方がまったくわかってないのだから。そんな流れで自然俺が手伝うことになった。
ミラーズはすんなりミックスまで行けたが、カイトは音が決まらず俺の家で丸一日かけてミックスを仕上げた。コンプもリミッターもノイズゲートもない。だから録りの段階でそれを見越した音作りをしていなければ実際お手上げなのだがそれでもそれなりに頑張った。
そしてその果てにカイトとミラーズ二枚のシングルを同じレーベル名でリリースするということになりゴジラレコードは誕生した。
7月から8月、シリーズ・ギグ「Blow Up! Tokyo Rockers GIG」を毎週日曜日に開催(実際には7月2回、8月4回)。
出演バンドに新たにセックス、突然段ボール、ペイン等ニューフェイスを加え、イベントはさらに多彩さを増していく。その一方でイベントとしてスタジオからの独立も試みられていく。
その試みの一つが目黒区福祉センターで「パンク仕掛け99% vol.2」として7月30日に開催されたイベント。これはかねてより紅蜥蜴がリハーサル用に押さえてあった小ホールを使った実験だった。ここでの結果、照明、音響等さまざまな観点から、場所は既存のライブハウスに当たるしかない、そう決断するに至った。
9月に入って17日、福生・チキンシャックにて「Open Up! Rockers」と題し、リザード、フリクション、S-KEN(バンド)でGIGを行う。9月29日には同じ面子で下北沢ロフトでGIG。
この時点で以前のポストで言及したように紅蜥蜴の関西ツアー・アンコールを端緒とした東京ロッカーズ・ツアーが企画されていた。
10月1日「爆発寸前!東京ロッカーズ 関西ツアー前夜」なるGIGを新宿ロフトにて開催。出演したのは、このまま関西ツアーに出かける俺達、フリクション、ミラーズ、S-KEN、カイト、つまりいつもの5バンドとアワーズだ。ライブがはけるとそれぞれのバンドは機材を車に詰めこみ西を目指した。まさに民族大移動だ。
10月4日、5日が京都・磔磔。
10月7日が大阪バハマ。
8日が神戸・ヤマハ元町支店ホール。神戸は2部制で1部は「ブランク・ジェネレーション」「グラハム・パーカーのライブ」などフィルム上映。2部が東京ロッカーズ5バンドのライブ。チラシ等には紅蜥蜴の名も見えたがそこは気にしない。嘘じゃないもん。
9日が京大西部講堂で「TOKYO ROCKERS in KYOTO 前哨戦」なるタイトルのイベント。5バンドの演奏のあと、オールナイトでロック、パンク、レゲエなどのフィルムコンサートを開催。
そして明くる10日が俺達バンドにとっての本番「BLANK GENERATION~TOKYO ROCKERS in KYOTO」だ。
この日の出演バンドは、SS、ジェイルハウス、GMM、ビデ・バンド、ブランクジェネレーションなど地元関西のバンドに加えて、リザード、ミスター・カイト、S-KEN、ミラーズ、フリクションの、夏のプロモ行脚の効果もあって次第に知られるようになっていた、いわゆる東京ロッカーズ5バンドだ。
もう祭りだね。
そして、祭りは終わった。
「ある意味、紅蜥蜴最後のツアーだったな」
東京に戻る車の助手席からハンドルを握るツネに、
「で、いつまでならOKなの?」そう問いかける。
「来年の初め、1月半ばぐらいまでかな」ツネは前を見たまま応えた。
「わかった。迷惑はかけられない。スケジュールをたてるよ」
関西にいる間にドラマーのツネから「家業の都合で脱退したい」と告げられていた俺達だった。
皆それぞれ自分の家族があり生活がある。こればかりは悲しいかなどうにもならない。
「でも一ヶ月くらい新しいドラマーのリハに付き合ってもらうけど」
「それはきっちりやる」
前を向くツネの目にもう迷いはなかった。
東京に帰ると早速スケジュールの合間をみてドラマー探しを始めた。
10月27日六本木S-KENスタジオにおけるリザードとミラーズのツーマン、11月2日三文役者 S-KENと共演した早稲田大学、この二件のライブをこなした頃だったろうか、候補が見つかった。
コーの知り合いだった。
ベルである。
その後、11月22日の屋根裏、12月17日新宿ロフトなど、ライブをこなしながらもドラマー引き継ぎのリハが続いていた。また一方では俺とジャン・ジャックとの邂逅もあった、そんな冬。
ジャンと会ったのは1978年12月半ばのことだ。音楽雑誌「JAM」編集長の水上はるこさんから電話があり、ストラングラーズのベーシスト、ジャン・ジャック・バーネルが俺に会いたいと言っている、そう伝えられる。その後幾度かすれ違いがあり、結局、六本木パブカーディナルで面談が実現した。で、彼らが制作中だったアルバム「Raven」のこと、エドガー・アラン・ポーのこと、江戸川乱歩のこと、そしてジャンが履いていたブーツ(ドクター・マーティン)のことなどとりとめもなく話した。これがジャンと俺のファースト・コンタクトだった。まるで就職の面接そのものだが本人はいたって真面目。そうした話の合間にジャンが日本の音楽状況の真実を知りたがっていることはみてとることができた。ジャン・ジャックからは、日本のホールで、全席立ち見で、キャーキャーさわぐグルーピーがウロウロしてない場所、呑みたい奴は勝手に呑んでいられるような場所知らない? そうたずねられた。
俺の答えはひとつしかなかった。
「京大西部講堂」
そこでストラングラーズの京大西部講堂公演が決まり、さまざまな業者の慣習を払いのけ、ジャン・ジャックとストラングラーズの意向で京大西部のみリザードが彼らのサポートを敢行することとなった。この公演は上手くいった。
話しは前後するが、前年の師走の喧騒の中、俺達は大晦日の京都を目指した。今回はリザード単独での話だ。その京大西部で俺達は年を越した。年越しイベントではコンディション・グリーンが一緒だった。
東京へとってかえすと1月2日渋谷屋根裏、こちらは映画「ROCKERS」撮影のためだ。
映画には紅蜥蜴時代の代表曲「デストロイヤー」「マシンガンキッド」の二曲を提供した。ドラマーはもちろんツネ。
もろに紅蜥蜴!
そして1月15日新宿ロフト。この日を最後にツネはスティックを置いた。
1月21日新宿・ライヒ館モレノ、この日がベルのお披露目だった。
このライブは4月にビクターからリリースされる「東京ニューウェーブ79」用に録音されていたがリザード、ミラーズは収録されていない。なにしろ俺達若葉マークだしね。この日のライブをLPとしてのこすなんて、初ライブだったベルに対してフェアじゃない。リザードのデビューでもある。紅蜥蜴の面影を消してリザードとして再出発しなければならない。
俺はベルのドラムスタイルにあわせてアレンジをあらため新曲を用意してもいたがそれもまだ完成していなかった。
結局、セッションを重ねた果てに新曲が完成したのは4月になってからだった。「東京ロッカーズ」のライブ・レコーディングには間に合っていない。曲のタイトルは「New-Kids in The City」といった。この曲を持ってロンドンにとぶことを思うと胸が高鳴った。まさに外宇宙から来たリザードにふさわしい。リザード 1stアルバム冒頭のあの曲だ。
京大西部講堂でストラングラーズのサポートの後、CBSソニーでの「東京ロッカーズ」ライブレコーディングの準備に入る。それを追いかけるようにしてジャン・ジャックからリザードプロデュースの申し入れがあった。「リザードはこの夏俺と一緒にロンドンでレコーディングだ」ジャン・ジャックはそう言った。めずらしく笑顔だった。俺達に否やはなかった。オーケーに決まっている。
「紅蜥蜴にはいつか外国人のプロデューサーをつけて」かつてこう言ったのは東芝にいた頃の石坂敬一さんだった。彼の予言は的中した。
そこからソニーとのオムニバスの準備があり、ジャン・ジャックとの仕事の受け皿づくりに入った。こちらはキングレコードの洋楽に間に入ってもらった。ストラングラーズと同じ外国のバンドとしての原盤契約だった。俺はデッカとかロンドンレーベルを希望したがウインドミルというレーベルに落ち着いた。
デッカやロンドンは古いストーンズの盤をディストリビューションしていたレーベルだ。デッカなら最高なんだがウィンドミルというのはベイ・シティ・ローラーズのパット・マグリンのレーベルだ!あの「デイドリーム・ビリーバー」だぜ!
信じられないよ。
レーベルはデッカ、でこれはイメージをちょっとかりるだけ、音とは無関係。アルバムカバーは全員黒いスーツでストーンズのファーストみたいな横並び、というのが漠然としたヴィジュアルイメージだった。そうしたプランがウィンドミルレーベルのおかげボツ。あるいはこれは僥倖だったのかもしれない。
バンド「リザード」の1stアルバム「LIZARD」が今眼前にあるそれであるために。
テレックスというのは大きな編み機みたいな一行プリンター。海外と関係のある会社ならまず備えてある。これで正式な契約を確認できる。まっFAXもpdfもなかった時代だった。のんびりした時代だった。俺も煩雑なスケジュールをこなしながら、普段は稼業(レコード屋の主人)をこなしていた。そのレコード屋は「ロキシーハウス」といった。コジャレた名前だが普通のレコード屋だ。一室には「Change2000」というミニコミのスタッフがつめており、となりの俺の部屋には林くんだとかSSのメンバーだとか東西の友人等が雑魚寝をしていた。
1979年3月11日、新宿ロフトにて昼夜二部に分けて「東京ロッカーズ」のためのライブレコーディングが行われた。俺達のみこの日の様子を全編公開しているが他のバンドは未公開のままだ。バンドごとの事情もあるのだろう。
とにかく二部全てをマルチに収めてその日の作業は無事終了。あっさり撤収である。
次に各バンド二曲を選び、そのマルチを元にメンバー立ち会いのもとミックスダウン。もちろんこれはCBSソニーのミックス専用スタジオでのことだ。そう何人も入れない。リザードは俺が立ち会った。
結果4月21日、CBSソニーからアルバム「東京ロッカーズ」が発売された。
リザードは「ロボットラブ」「レクイエム」の二曲選択。
残念なのは、みんな自分のバンドの作業にばかり夢中で、アルバム全体の、マスタリングにまで目がとどかなかった。そこで客席の息づかいなど、ライブらしい痕跡が一切ないクリーンなアルバムにしあがっていたこと。スタジオライブという感じ。
そんな清潔感が気になるもののあれだけバラエティー豊かなバンドをとりあえずは一枚のアルバムに収めたのだ。さすがは名ディレクター高久さんだと今にして思う。なにしろ東芝EMI時代の石坂さんがライバルと認めていた人物である。ただ者ではない。アルバムカバーは鋤田さんにお願いした。
4月22日、新宿ロフト「東京ロッカーズLP 発売記念ライブ」
このころになるとバンド間の軋みも大きくなってきていた。バンドごとの動員にも差が見えてきており、どうにもならないこととはいえ、内部に不満・鬱憤が蓄積していた。
そこで「東京ロッカーズを名乗るのは次のツアーを最後にしよう」誰ともなくそう言いだした。
4月28日 名古屋今池芸音劇場をかわきりに最後のツアーが始まる。
4月29日、30日 の京大西部講堂を経て、フリクションと俺達リザードの2バンドは大阪南港からフェリーに乗り込み一路博多を目指す。5月3日 久留米・香港庭園。5月4日が福岡・大博多ホール。5月5日が小倉・写楽。以上で日程は無事終了。
九州では2バンドだけだったので若干寂しさを感じたが、博多ではモッズとロッカーズが、小倉では人間クラブが、それぞれ共演してくれた。
ステージサイドで俺は何かしら頼もしさのようなものを感じていた。まだメンタイロックと呼ばれる前の話だ。
これで東京ロッカーズの物語は終わる。
拾遺 その壱「エイシャー」
東京ロッカーズの話、唐突に終わってしまった、そんな感じだけど、実際の現象としてもそんな感じだった。雑誌なんかはレコード発売にともなう情宣のせいもあってこれから盛り上がるところだったので、それと実在するバンド群、つまり俺達の温度差に戸惑うファンも多かった。勝手な奴らだと思うよ。
でもね、俺個人の話だが、正直ホッとした。
だって渡航準備もおわってないし、ジャン・ジャックやレコーディング・スタッフに渡すためのキューシートだって半ば手つかずのままだ。
こればかりは他の誰かさんに任すわけにはいかない。以前、他のメンバーに任せたところ、自分のパートだけ、という使い物にならないシロモノが出来上がってきた。
他人をあてにしてはいけない。
そうした雑然とした中で渡航の準備は次第に整っていく。俺達の渡航の日が近づくにつれ、渡航後のスケジュールも明確になっていく。なんでも新宿ロフトでは地引・清水両くんを中心にパンク・ニューウェーブバンドを集めて一大イベントを開催するという。
「Drive to 80's」
である。
ロンドンでの入国手続きで大変だったのはビザの件だった。ロンドン・ヒースローの入国で俺が「we need the working-VISA」とぶちあげたもんだから大騒ぎになった。事前の話では俺達は文部省の文化使節ということで話が通っているはずだった。だが一連の書類を持っているはずの人間がこない。最悪だ。
ストラングラーズの事務所の人間。あるいはUA(ユナイテッドアーティスト)の人間が来てくれているはずだったが。待ったところで待ち人来たらず。空港オフィスのお父さんが頑張ってくれたおかげで書類がそろい、やっとのことでロンドンに上陸できた。ということでイーリング・コモンの常宿へ。
ロンドンに着いて二日程オフ日があった。オフの後で俺達とジャンは、数日間、レコーディング前のリハに入る。ここで二つのパートに別れていた「王国」という楽曲の切り分けが行われ、オリジナルに近いパートはジャンの提言でベースラインを改め、一方は別の曲とすることとした。
さてどうする?
で、俺はバンドがリハしてる間に一人リハスタジオの片隅で新曲というか新作の詩のために頭をひねることになる。たった数日だが、ロンドンに着いて以来、頭の奥で表現されることを待っている言葉達がいる。そのアイデアに形を与えねばならない。
「エイシャー」
この曲は「遺伝子の記憶」とその深奥への旅を歌ったものだ。その旅の果て「赤い大陸」で「僕」は自らの拠り所たる大地を陵辱する近親憎悪とでも言うべき感情の沼に呑み込まれ、カタルシスを迎える。
こうして俺はロンドンのホテルの一室で東アジアに住む黄色人種である自分を認め和解したんだった。
エデン・スタジオでのレコーディング時にはかつて「王国」だったその曲はすっかり新曲「エイシャー」へと変容していた。
成田を発った頃には、俺は一人の日本人だった。それがシャルル・ド・ゴール経由でヒースローに着いた頃には、東アジアの黄色人種というふうに自己認識がシフトしていた。
ふと、最初のオフ日にカムデン周辺やポートベロ周辺をウロウロしていた際に目にした光景がまぶたに浮かんだ。
あの辺りの路地裏では、もう日本じゃ誰も使わなくなっていたポータブルレコードプレーヤーで大音量でレゲエのEPをかけ、そのまわりで踊っているドレッドヘアーの一団が目についた。
むろん路上での話だ。勝手な歌詞をリズムにのせて歌っている奴もいた。その頃はDJやダブについてよく知らなかったので、ノリがいい人達だな、程度の感想しかもてなかったが、事態がより深刻だと思い知ったのは、レコーディングを終えてGIGに専念した英国滞在後半、ライブハウス「ナッシュビル」でのことだった。
実は、彼等は間奏が長めの7インチレコードをかけ、その間奏の間になにかしらアジテートしていたようなのだが、その内容を知らされたのはそれが初めてだったのだ。あれは、ナショナル・フロントとジャマイカ系の移民、両者の軋轢が沸点を迎えようとしていた、そのサインだったんだと。
現地に着くと天井に大きな穴があいていて吃驚した。警護のフィンチュリーボーイズに事情を訊くと、数日前にレゲエ・バンドのGIGをナショナル・フロントが襲撃し、その折りに爆弾で屋根が吹き飛ばされたのだという。さらに、お前達も狙われている可能性があるので俺達が警護する、任せとけ!そう言ってのける。
このフィンチュリー・ボーイズというのは、ジャン・ジャックあるいはストラングラーズの私設サポーターのことだ。俺達のGIGでの機材の設置から警護まで面倒みてくれ、全員明らかに喧嘩が強そうだった。ただ、どこかナショナル・フロントとの衝突を待ちうけているような気配があり、それが困った。
結局、なんら事件らしい事件は起こらなかったが、その夜のライブが独特の緊張感の中で行われたことは確かだ。その様子は地引雄一くんのところでリリースされたライブアルバム「彼岸の王国」で聴くことができる。1979年夏ロンドンの屋根が爆破された箱での記録、そう滅多に録れないドキュメンタリーだ。
とにかく、英国に着いて以来、マネージャーの指示のまま何日間かのリハーサルの後にエデン・スタジオでレコーディング。ついでエアー・スタジオでミックス。このミックスの間に何件かのライブ。そして帰国。あっさりしているようだが、実際、これがその年の夏の記憶だ。
拾遺 その弐「サーカステントの夜」
帰国すれば「Drive to 80's」が待っているはずだった。本来は9月2日の「Drive to 80's」トリ日が帰国後初の新しいリザードの公開日だった。それが関西からのSOS要請にしたがって8月22日京大西部講堂で帰国後初のギグを敢行することになったのだ。もともとXTCの日本公演だった。が、チケットがさばけない。そこで日本のバンドを交え「World New Wave Circus」とフェスティバルの体裁で情宣しなおしたのだが、まだ弱い、何とか力をかしてもらえないか、というのである。
こちらにはストラングラーズの日本公演の際、協力してもらった負い目がある。助けてあげるしかない。
しかし、嫌な予感がしていた。現地に着いてその正体がわかった。ロンドンから帰ったばかりだった俺達はメンバーの招集がおぼつかなく、そのことは主催者に伝えてあった。その結果だろうが、リザードの出演は一番最後となっていた。これってバンドの儀礼上どうなんだろう?
外見的な体裁から言えば「リザードがトリ、XTCが前座」ということになる。
俺はそんなことにこだわらないが異常なほどに執着する奴もいる。何しろ俺はXTCのファンなのだ。こんな極東の島国で失望させたまま帰国させるわけにはいかない。俺はステージサイドで彼等の演奏を聴きながら念を送っていた。俺の思いが通じたものかどうかそれはわからない。はっきりしているのは俺の中に苦いものが残ったということだ。バンドを続けていれば避けて通れない道なのだろう。後に「XTCが前座でしたね」と関西のミニコミのインタビューなどで問われ、はっきりしない返事をかえしていたのはこんな事情からだ。
さあ、東京へ帰ろう。ロフトが待っている。
DRIVE to 80's最終日、俺達はいつもの街いつもの箱にいた。感動というものはない。ただ何日か前の京大西部での嫌な感じからは解放されていた。いつものようにただひたすらロックすればいい。突然ダンボール、マリア023、モルグが一緒だった。心地いいライブだった。
9月9日日比谷野外音楽堂「Over The Wave 9.9」 この日、RCサクセションのステージが終わり、キョーシローからリザードを紹介するコールがあると、少年少女達がステージに殺到した。アナーキーな状況はロンドンで経験済みだ。少年少女が演奏やパフォーマンスの邪魔をするようなことはなかった。
俺達はファーストアルバムの準備にはいっていた。
最初のイメージはボツ。「ラ・デュッセルドルフ」のファーストのような夜景遠景の上空に「エーリアン」サントラ盤のような浮遊物体というのが俺のイメージ。そこから実現可能なものを探っていく。で、その叩き台にする写真を地引くんに撮ってきてもらう。地引くんは地元五井のコンビナートの夜景を幾葉か用意してきた。タルコフスキーのソラリスを思わせるものもあった。カッコよくてもジャンのソロ・アルバムを連想させるようなものは避けたい。もろデュッセルドルフみたいなものも。
あれこれトリミングを試行するうちにボンヤリとカタチがみえてきた。
最終的に残ったデザイン案は俺が最初にキングのスタッフに説明したものと大分違っていたが、いいものはいい。ただどうしても譲れないものがある。コーティングと紙質だ。紙質は一部の英国盤を思わせる薄いもの。ボール紙は不可。それにフィルムでコーティングする。このくらいは外タレ扱いの特権だ。
毎日のように護国寺天風会館のキングレコード洋楽に詰める日が続いた。ウインドミルレーベルの傘下に個人商店としてChange 2000レーベルをたてることになり、それもキングのデザイン部門と制作した。ラフスケッチを俺が担当しそれをデザインチームに清書してもらう。こうしてChangeのロゴも完成した。
こうして11月21日、ファーストアルバム「LIZARD」が発売され、明くる22日に京大西部講堂から発売記念ツアーがスタートした。神戸、福岡を経て新宿ロフト、仙台をまわるツアーだった。そして12月16日後楽園テント特設会場でストラングラーズと再会した。今回はキングレコード協賛の正式なサポートだ。サポートバンドは協賛金を払うというのが業界の慣例だという。今回は東京、名古屋、大阪でキングレコードが協賛してくれた。京都は無し。
いろいろめんどくさい話を書いていると切りがないので話を先に進めよう。
楽屋のあるバックステージにはいると驚くことに猛獣をいれた檻が並んでいる。小動物じゃなくて豹や虎などの猛獣だ。なんでもサーカスのスケジュールが被っておりそこの動物達だという。俺は江戸川乱歩の探偵小説に迷いこんだような気分だった。
「ごめんな。二日間うるさくするけど」檻をまわりそんなことを言ってまわる。どこかにタキシードを着た怪人がいる、そんな気がする。
そんな俺の妄想と関わりなくサウンドチェックが終わりリハーサルに入る。ストラングラーズの初来日は後楽園ホールだった。あの時のタイトな音に比べてこの特設テントでは何だかブヨブヨした残響が後をひく。気持ちが悪い。俺達はステージ上狭く機材を配置しタイトなセットでライブにのぞむことにした。
そして、本番。
リハの間に動物達も爆音に慣れたようで本番が始まっても興奮して咆哮するようなことはなかった。オーディエンスも適度な興奮状態。サポートバンドとしては悪くない仕事ぶりと言えたろう。ライブ終了とともに俺も緊張がとけ、動物達と憩いの一時だ。
とここまでは全てがうまくいってた。
ストラングラーズのライブがはじまるのを待ちおっとりとステージサイドに移動する。今回のレイブンツアーはダークなイントロダクションで始まる。何事も無かろうが非常事態に対処するためである。曲がいつものナンバーに転ずるや客の動きに荒々しさが加わる。最前列で客と警備員の揉み合いが始まった。一人の客がステージに上がると際限がなかった。次から次へと上がってくる。いつかステージ上は客だらけ。それでもストラングラーズは演奏をやめない。一人の客が俺とジャン・ジャックの肩に腕をかけ目の前にあるジャンのエフェクターをリズムにあわせてオンオフ しはじめた。狂気の宴というしかない。
ヒューをみやると彼もエフェクターのオンオフ攻撃にさらされていた。
ストラングラーズ側もいったんステージを去り、「ステージにあがらないよう、アーティストの身体に触れないよう、ステージ上の機材に触れないよう」言うまでもないことを くだくだ言ってまともな観客をうんざりさせた。
しかし、エフェクターを曲のリズムにあわせてオンオフすることにどんな意味があったのかいまだわからない。わかるつもりもない。俺にとって問題だったのは俺とジャンの肩に腕を組み嬉しそうにしていたのが「Change 2000」のスタッフだったということだ。彼は俺の近くにいて何を聞いていたのだろう?
俺はその後、数日間、鬱鬱としてすごしていた。
大阪では例によってグルーピーもどきのファンの喚声にストラングラーズは悩まされていたが東京でのようなトラブルにまでは至らなかった。
了
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