「ありのままで」の使い方
「仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもようようすこしづつさめ、三毒をもすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ふぞかし。」親鸞聖人御消息【二】
「ありのままで」とはどう使うべき言葉なのか。
「ありのままで」という言葉、少し前に流行りました。『アナと雪の女王』という映画を覚えている方も多いと思います。映画の中でエルサが歌っていた「ありのままで」はとても印象に残りました。
この曲がヒットしたのは、時期的にも女性の社会進出が進んでいたこと、そして、女性が女性らしいと言われるような仕事だけではなく、それまでは男性の世界であった仕事でも自分がやりたいと思った仕事につくことができるようになってきた、そういう社会的な変化が影響して大ヒットとなったという気もします。例えばですと、電車の運転士さんも女性の方がされていることもめずらしくなくなりました。トラックの運転手もそうですし、職人の世界でも女性が活躍していることがあります。もちろん逆もありきで、男性が女性の仕事と思われていたところで働いていたりもします。幼稚園の先生とか、看護師さんの世界でも男性の方がいることもあります。
さて、この「ありのまま」という言葉について少し考えていたときに、「ありのまま」なんてとんでもないことです!と強い口調でおっしゃるラジオを聴くことがありました。それは、美輪明宏さんがされているラジオです。ポッドキャストでTBSラジオが美輪明宏さんの昔のラジオを一部分だけ取り上げてアップしていて、たまにそれを聞くことがあるんです。その中で、美輪さんは「ありのまま」なんて曲が流行ってますけれども、「ありのまま」なんてとんでもないことです、とおっしゃっていました。多分、そのラジオを収録された時期は『アナと雪の女王』の映画が流行った時期のことだったんでしょう。
美輪さんは「ありのままで」という曲に違和感を感じられている。その理由について考えていた時に思い出したのがミッツ・マングローブさんのコラムでした。
週刊朝日に載ったコラムは、2・3年ほど前にネット上で話題になっていた不登校ユーチューバーについて書いていました。沖縄県の中学生、「ゆたぼん」のことです。彼について、ミッツさんは連載コラムの中で論評をしていました。
まず学校教育について、個性を殺す教育だ、といわれるけれども、ミッツさんは、殺せないほどの個性を持った自分は普通にふるまっているつもりでも普通じゃなかった。個性なんて裏を返せば「欠陥」で、抜いても抜いても生えてくる雑草みたいなもの、と人が持つ個性をその人が生まれ持った欠陥と言い切っています。そして「その欠落にどう自分の中でけりをつけ、周囲とのバランスを取り、あわよくば利点や武器に替えていくか、それこそ私が学校生活を通して学び得た最大のものだったような気がします」と書かれています。つまり自分の個性を殺せないけれども社会生活の中でうまく生きていくために、自分で周囲とのバランスをとる、もしできるなら個性を利点や武器に替えられたらいい、でも変えられなくても周囲に迷惑にならないように、個性という欠陥に自分でけりをつける、ということを学校生活で学んだ、とおっしゃっているわけです。
そのつづきです。「『個性という名の欠陥』に自信を持つためには、なんでも人や環境や社会のせいにしないことが大事です。『互助』を求めるなら、まずは『自助』に努める。自助力をつけるためには、アウェーで画一的な場所に身を置くのがいちばん手っ取り早い。妥協や譲歩といった『折り合いの付け方』を知らずに自己主張だけをしても、『欠落の克服』にはなりません。学校に行かない子供に限らず、最近はあらゆる自己主張の声通りがよくなっているせいか、この『自助努力』を棚に上げている人が多いように感じます。」とこのようにつづられています。
自分の個性とのけりの付け方、あるいは言い換えると個性との折り合いの付け方、それを社会で生きていくための「自助努力」と書かれているわけです。そしてその自助努力をするということは、どんなことでも人や環境や社会のせいにせず、妥協や譲歩を自分の中の選択肢に入れていく、ということを書かれています
このように考えていくと、「ありのままで」なんてとんでもない!と言われた意味も分かるような気がするのです。
ありのままでいたい、と自分のことについてそのように言うという事は、自己主張してるに他なりません。ありのままでいい、と自分に向かって言い始めたら、どこまでも自分を甘やかしてしまう、それが人間だ、ということなのではないでしょうか。そうではなく、自己主張する前に自助努力が必要、それを学ぶ場所が学校という場所だ、という風にミッツさんは言っています。「自助」はなく「互助」だけを求めて、私のこと助けて!というだけの人間にならないように、まずは自助努力、自分で周囲とのバランスをとるにはどうしたらいいか、考え行動することが必要だということではないでしょうか。
別に不登校が悪い、ということではなく、学校に通わなくてもいいんですけれども、学校とはそういう社会と自分の個性との折り合いの付け方を学ぶ所だということを認識しておくことは必要だと思います。どうしても頑張って学校の中で自分を殺して我慢して過剰な我慢を強いられて、心がぷつんと切れてしまう、もう頑張れなくなるということもあります。そういうときは休んでもいい。ただ、家が楽だから学校で学ぶ勉強は意味がないからと自助努力をほおりだして、これが自分のありのままなんや、となにも自分は頑張ることをせずに人や環境や社会のせいでこうなった!と言うのも違う、ということだと私は思います。
浄土真宗では悪人正機という言葉があります。これは救いの対象が誰が救われるのかというと、煩悩にみちみちていて、煩悩から離れることは決してないそういう凡夫が阿弥陀様に救われるのだということです。自分とは煩悩具足の凡夫である、悪人である、と自覚をもつことは、自分の置かれた状況や状態がすべて人のせいで自分が悪いのではない、と言い続けることができなくなります。その自覚を持つと社会の中で生きていくための自助努力ができるのではないでしょうか。それが親鸞聖人がこのみ教えを尊ばれたところの一つではないかと思うのです。
最初にいただいたご讃題は親鸞聖人のご消息、お手紙からいただきました。阿弥陀様の必ずお前を救うぞという本願を聞き始めたなら、無明(無知)からすこしずつ離れていく。三毒(煩悩)を好まなくなり、阿弥陀様の薬つまり「南無阿弥陀仏」の六字、無明や煩悩を自覚させてくださるはたらき、私たちにとって薬となるもの、を好むような身になる、とおっしゃっています。
自分に向かって「ありのままで」ということは煩悩を増長させることなのかもしれないと思ったというお話しでした。
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