電脳記号の事件簿【1-2】
探偵事務所。私はソファーに座る。テーブルには薬酒だ。私は格調高い背広を着ていた。市民は普段着を変えない。これは歴史単位の流行だ。
猫島めいは私の隣に腰掛けていた。いつものドレスだ。
私はメモ帳とペンを見ている。よくある掌サイズのメモ帳だ。私はパラパラと白紙をめくる。ペンも、普通の量産品だ。何の電脳的仕組みもない。
「それは何?」
「『宝石』対策の道具だ」
「メモ帳とは古風ね。何か仕込まれているの」
「いいや。普通のメモ帳だよ。手品ですらない」
「相手は、科学の完成品たる、電脳記号よ」
「『宝石』に、納得への上書き機能はない」
「メモをして、自らの思考を、客観的に読むのね」
私は首肯した。テーブルの薬酒を手に取る。私は薬酒をラッパ飲みした。
神経症によい薬酒だ。電脳事件の恐怖をやわらげてくれる。私はボトルをしめると薬酒をソファーの隙間に隠した。じきに依頼人と妹君は来る。私はメモ帳を示した。
「これで納得をさせられていたかは分かる」
「かなりの意志力を必要とするわよね」
「意志を整理するにも、メモは役に立つよ」
「電脳記号の効果を受ける前提ね。予防策ではない」
「記号は確認しておきたい。この目で見ておくのさ」
知性とは批判だ。無条件の納得は、批判を考えられなくする。肯定も否定も関係ない。正しいかどうかの自己批判から、知性は始まるのだ。所属する派閥で、知性を決めるのは、スタートラインにすら立っていない。知性とは名ではなく生き様だ。
「勤勉だことね。私は見たくない。目は逸らしておく」
「ご自由に。もうじき姉妹は来る。どんな妹君だろうね」
「相当なお馬鹿さんらしいわ。姉とは大違い」
「姉君は、頭のよさがにじみ出ていた」
「きっと妹の劣等感はすごいわよ」
「美人で賢い姉をもつとね」
「女の虚栄心は、北風のせいだわ」
私は猫島をいちべつした。
「その北風は、劣等感の暗喩(メタファー)かい」
「文学者にでも聞いてちょうだい」
「それはそうだ」
「騒がしわね」
「妹君だ」
事務所の戸口から騒がしい声が聞こえ始めていた。足音も近づいている。甲高い声の隙間には、落ち着いた言葉も混じる。落ち着いた言葉は、依頼人の淑女だと分かった。
私はノックを待つ。しかし、扉はノックもなしに開けられた。
無礼な入室をしたのは、金髪ツインテールの少女だ。お嬢様学校の制服を着ている。少女は、首に『宝石』を提げていた。件の妹君だ。明らかに本物の『宝石』を提げている。
猫島めいは、爪を気にするふりで、顔を伏せた。もう部外者の顔だ。
「あら、イケメーン」
「私は寺井すけろくだ」
「ノックをして開けなさい」
「こちらが君の妹さんかね」
「るみと呼んでね」と妹君。
会話が渋滞している。私は咳払いをして、話を掌握した。
「るみさん。今日はご足労頂きありがたい」
「本当よね。私も忙しいのよ」
「るみは遊びまわる毎日よね」
「お姉。うるさいのはなしにして」
「そうね。すこし黙っているわ」
私は閉口した。姉君はあまりにも簡単に応じたのだ。
「それが『宝石』の効果かね」
「ええそうよ。便利で素晴らしいダイアだわ」
「ダイア。確かにダイアだ。納得させられる」
私はメモを始める。『宝石』は、ダイアだ。私は納得した。確かに本物だ。しかし、電脳記号の効果からして、話は変わる。私はメモを素早く走らせた。見た目はガラス玉をしている。私は得心した。やはり電脳記号の倒錯はこれで間違いない。
電脳記号とは、科学完成運動の産物だ。科学は完成しなかればならない。このスローガンは、理系的と文系的の、2通りの目的を導き出した。
理系的は、『シンボルネットに応じて純物理の錠前は開閉しなくてはならない』だ。
文系的は、『シンボルネットに応じて純精神の営みは変わらなくてはならない』だ。
この2つを達成するために、電脳記号は発明された。人類はネット機能をもつナノサイズ機械を空中散布する。これはエネルギーに応じて、多様な力場も発生させる。人類は、運命とエネルギーの問題だけを残して、科学の完成を宣言した。
「とにかく、要件は手早く終わらせるわよ」と妹君。
「るみ嬢の言い分を聞きたい。君は電脳記号をどうする」
「どうするとは、どういう意味よ」
「失礼。私は思考が乱れている」
「バカな探偵さんね。アハハハハ」
私は舌を丸めた。言葉足らずだ。思考が乱れている。というよりも、結論がさきにきてしまうのだ。私は口をへの字に曲げた。やはり意志力が試されている。
「話を明快にすべきだ。君は電脳記号を手放すかね?」
「嫌よ。手放す訳ないわ!」
「そうだろうね。しかし姉君は手放してほしい」
「私は貴方のためを考えているのよ」
るみ嬢は、口を尖らせている。大人と見られる努力を感じない。
そのとき猫島めいは、爪を気にしながら、ぽつりとつぶやく。
「3人して何を話しているの」
「会話に、何かしらの疑問でも?」
「会話、会話、会話なのかしらね」
その発言に、るみ嬢は、単純な考えを口にした。
「何それ。超不快。帰る」
「こんなすぐに帰るのは失礼よ」
「帰ると言ったのね。私は賛成だわ」
「めい嬢。まだ話を始めたばかりだ」
「お話にならないわ」
猫島は、空気を剣呑にした。
しびれを切らしたのはるみ嬢だ。彼女は立ち上がる。
「美人だからって調子に乗るなよ、ブス」
「帰りなさい。私はお話ができてしまいたくないの」
「あーもー、マジ、不快」
「るみ。こら、待ちなさい」
るみ嬢は早足で退室した。
姉君は、るみ嬢を追いかける。姉君は、戸口で我々に一礼した。姉君は退室する。
猫島めいはデバイスを私に見せた。いつの間にやら小鞄から出している。
「めい嬢。なぜ邪魔をした」
「貴方のためよ」
「それは何だね。デバイス?」
「途中から録音しておいたの」
「メモはしていると言ったろう」
「よいから聞きなさいよ」
猫島はデバイスを起動した。シンプルな操作で、録音は再生される。
「アウアウアウ、アウアウアウ」
「失礼。私は思考が乱れている」と私の声。
「アウアウアウアウ。アヒャヒャヒャヒャ」
「話を明快にすべきだ。君は電脳記号を手放すかね?」
「アウ。アウアウアウ!」
「そうだろうね。しかし姉君は手放してほしい」
私は瞠目した。この人語にならない声は、るみ嬢のものだ。私は記憶を思い起こした。記憶上の妹君は、人語を話している。しかし、何かがおかしい。
私はつばを飲む。苦虫を噛み潰したような顔だと自覚できた。信じられない。私の記憶と録音は、合致している。その録音は、最後まで人語にならない声が続いていた。
「冗談だよな。私は会話ができていた」
「『宝石』を見たからよ。頭が悪くなるわね」
「彼女は『宝石』で我々をもて遊んでいたと」
「いいえ。恐らく本人も話をしていたつもりよ」
「推理するに。自分にも『宝石』を使用している」
「知性は批判だというわ。納得の乱用で、堕落したのね」
私は胃酸が逆流している。私は動悸を覚えていた。自分でも驚きだ。本当に怖い。
「納得の乱用。しかし話通りの『宝石』でも、こうはならない」
「倒錯が壊れたのよ。多分ね」
「本人が『宝石』をダイアと思い込む。本人は気づいた」
「というよりも、思い込むのにも『宝石』を使用したのよ」
「なるほど。純粋も、意味通りなら、倒錯ではない」
「依頼を受けなさい。姉君のためよ」
「今の『宝石』は近くにいたら被害を受ける」
「貴方は決定的なところで『先端』でいる。だから私は惚れた」
猫島は綺麗な顔を歪ませない。丹精な顔立ちだ。私は異物感を覚えた。
猫島めいは、精巧な目を、私に向けている。
私は肩甲骨を動かした。私は深く呼吸をする。
「信じられない。本当に怖い」
「貴方は怖がりだものね」
「私は、姉君に好感を抱いている」
「女のために依頼を受けるつもりね」
「不快かね。猫島めい嬢」
「私は『先端』な男が好きだもの」
怒りに満ちた猫島めいも美しい。彼女は小麦色の肌を赤くしている。
私の神経は爆発した。
「ええい、くそったれ! その期待は君のエゴだ!」
「貴方の好感もエゴじゃない!」
「私はバカでない女が好きなのさ」
「私がバカなのは、貴方の前だけよ」
「決定的なところで、私はバカが嫌いだ」
「私は貴方に惚れているからバカな女なの!」
「なぜ私を愛しているのさ」
「うるさい。貴方のせいよ!」
我々2人は、顔を真赤にして睨み合っている。お互いにらしくない。
私は今日1番の深呼吸をした。
「分かった。依頼は受けるよ」
「あらそう。勝手にしなさい」
私は冷静になろうと努める。私は決定的なところが『先端』でいる。その通りだ。冷静になるにも『先端』でいた。私は潔く非を認める。猫島に低頭した。
彼女も、財閥令嬢として、色々な人間を見ている。私の謝れるところが好きなのだろう。私は彼女が嫌いだ。しかし、自分の長所を曲げる気はない。
「めい嬢。話が逸れた。すまない」
「そういうところよ、色男」
「私は、自分がバカなのも、嫌だからね」
「この流れで謝るのもバカじゃないかしら」
「もちろん、バカな行為だとも」
「そういうことね」
「そういうことだ」
猫島は今日1番の嘆息をした。
「何だか何かを嫌になるわ」
「私は私でありたいのでね」
「依頼について考えるべきね。付き合うわ」
「ここからは私だけで動いても構わない」
「寂しいことは言わないでよ」
「君に何のメリットがある」
「私は貴方の相棒になりたいのよ」
「それがすべての動機かね」
「そうよ。私は貴方の隣にいたい」
彼女はわざわざ私に依頼をまわした。これは行動を供にする布石だ。私は、猫島を再確認した。やはり彼女は財閥の人間だ。極めて政治的行動をしている。これが彼女の長所なのだ。だからこそ、私は彼女が嫌いでもある。しかし同時に頼りになるとも感じていた。
「相棒。めい君。よろしく頼む」
「切り替えの早い男よね。素敵だわ」
「依頼内容は、『宝石』を取り上げる、だね」
「猶予はどのくらいだと考えているの」
「あと1日だ。24時間以内に解決しないと妹君は引き返せない」