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適応障害〜症状の自覚から診断をもらうまで〜


お久しぶりです。

 今日は、非常勤教員とは直接は関係ないですが、私の適応障害の経験について書きたいと思います。

 初めて症状を自覚したのは、前に勤めた学校の1年目の冬でした。ちょうどコロナ禍が始まり、学校の休校で始まった年度だったので、マスク生活も一年目だったと思います。朝、毎日駅から15分〜20分学校まで歩いていたのですが、そこで「なんか息がしにくいなあ」と思ったのが最初の自覚症状でした。そして、動悸がするようにもなり、そのうち電車の中でも息のしにくさや動悸を感じるようになりました。しかし、そのころはおそらくマスクのせいだろうと考えていました。なので、インターネットで呼吸法や姿勢、仕事の間にできるストレッチなどを調べてやってみたりもしていました。
 息のしづらさと同時に自覚したのは、感情の揺れ動きでした。その当時、他の先生のトラブルに巻き込まれ、そのせいで涙することが多々ありました。父も母も、そのトラブルの内容を聞いて「そんな学校辞めていいよ。」と言ってはくれていましたが、一方で「あなたはまだ若いから、受け止めきれないこともあると思うけど、でもそれを受け止められないのは、まだ経験が浅くて若いからというのも多分にあるよ。」とも言われていました。そのトラブルは私にとっては理不尽極まりないものでしたが、社会に出るとそういうこともあるのかもしれないと思っていました。
 感情の起伏は、怒りの方にもよく振れていました。生徒に対しイラっとすることが増え、その感情をなぜ持ってしまうのか、どう対処していいのかわからず悩んでいました。私はもともと穏やかな方ではないですが、それでも、自分が最近イラつくことが増え、感情の起伏が自分でも手に負えないことに戸惑っていました。
 以上のような、息切れ、動悸、感情の起伏が最初の症状としてあらわれ、いまなら「それ、自律神経の乱れ!」と言えるのですが、当時はそんな知識もなく、マスクのせい、経験不足のせい、ひいては冬で寒いせいと考え、どうすることもできませんでした。どれも、春になってあたたかくなればおさまるだろうと考えていました。

 そして新学期になり、春になってようやくあたたかくなり、症状もなんとなく軽くなったように思いました。ですが、以前の記事でも書いたように、管理職、初担任、初顧問、授業の種類の増加など、多くの業務が押し寄せるにつれて、やはり息切れや動悸、感情の起伏が起こるようになってきました。
 特に悩んでいたのは感情の起伏でした。この頃には、悲しくなることはほとんどありませんでしたが、イラっとすることが増えていました。「イライラ」というより、「イラっ」という感じです。持続的なものというよりは、稲妻が落ちるように、一瞬ものすごい怒りが自分のなかに沸き起こって、それが黒いものとして心の中に残り続ける感じです。そんな自分の感情をどうしてよいかわからず、対処できないことが多々ありました。

 問題が起きたのは、新学期から数ヶ月たったあとの、宿泊研修のときでした。コロナ禍の宿泊研修ということもあり、感染者がでないよう、色々なルールがあったのですが、やはり普段の生活と違うなかで、ルールを守れない行動をする生徒が出てきました。その裏で、私がまるで仕事をしていないかのようなことを示したメールが管理職教員の間の一斉メールで送られてきたということがあり、私はパニックになっていました。パニックになった私は、生徒がルールを無視した行動をしたときに、また稲妻が落ちたようになり、その生徒を必要以上に叱責してしまいました。その怒り方が異常に見えたのでしょう、後から他の先生にアンガーマネジメントの本を読むよう勧められました。
 私は自分がアンガーマネージメントの本を読むのを勧められるぐらい異常なのかということがショックでしたし、他の先生は私がなぜここまで怒ったのか、理由をどうして聞いてくれないのか、悲しくなりました。生徒にとっても、他の先生にとっても、私は怒り狂っている変な人というようにうつっているのだろう、と思うと、また動悸が止まらなくなりました。

 それからずっとキレるように怒ってしまったことの後悔に苛まれながら、秋になりました。息切れ、動悸、イラつきに加えて、夜中に目が覚めるようにもなっていました。また、嫌な夢を見ることもよくありました。体調も決して良くはなく、だるさを感じることもありました。
 そんな体調の異変を感じながら、仕事は続けていましたが、自分の担任していたクラスで問題が起き、その対応に追われていた週がありました。そして、その週の金曜日、生徒に決定的な一言を言われ、ショックで、家で泣き崩れました。
 そして次の週の月曜日、また朝電車に乗って仕事へ向かったのですが、お腹に激痛を感じ、途中の駅で降りて、トイレへ駆け込みました。幸い間に合いましたが、なにかよくわからないですが、とてもショックで、その場から動けなくなってしまいました。しかしそのままでもいられないので、とりあえず学校へ電話をかけ、休む旨を伝えて、這うようにして自宅へ帰りました。
 次の日もショックは治らず仕事を休み、水曜日、意を決して学校へ向かいました。月曜日にお腹が痛くなったところを過ぎるときは、また腹痛が起きるのではないかドキドキしました。学校の最寄り駅に着いて、いつものように歩いていたのですが、するとなぜか涙が出てきて、止まらなくなりました。学校に着くまでになんとか涙を止め、席に着きましたが、涙が出そうになるのを必死でこらえました。ホームルームは月曜日と火曜日に代わりに出てくださっていた先生にお願いして、その日も代わりにやってもらうようお願いし、私は隣へついていたのですが、一番前に座っていた生徒に、「先生どうした?大丈夫?大丈夫?」と心配されました。私は何も言わずにただ突っ立っているだけなのに、生徒にまでこんなに心配されるなんて、はたから見ても大丈夫ではないことがわかるのだと思いました。そこで職員室に戻ってから、上司にあたる先生に休みたい旨を告げました。その先生もさすがにこれはと思ったのか、とにかく今日は帰っていいから、明日からも休んでいいと言ってくださり、私は今来たばかりの職員室を後にしました。職員室を出ていくときに、他の先生に「おつかれさま〜」と言われ、クソかよと思いました。 
 
 そして、ちょうどそのころ家の近くに心療内科ができたので、そこで診てもらうことにしました。まず看護師さんが事情を聞いてくれ、私は泣きながら自分の症状やそうなったいきさつを話しました。その後にお医者さんに診てもらい、さらに詳しく話をしました。お医者さんは、うんうんと私の話に耳を傾けてくださり、また、生徒に言われた一言について、一緒に怒ってくれたりしました。そして、とにかく仕事を休みましょう、ということになりました。そして、職場に提出するように診断書を書いてくださいました。それを受け取ったとき、そこに「適応障害」と書かれているのを見て、「ああ、私のこの症状は適応障害というんだ」とはじめて知りました。

 以上のようにして、私は「適応障害」という診断を下されました。
 補足すると、私に決定的な一言を言った子と、私が叱責した子は別の子です。また、決定的と書きましたが、その一言によって私は休職したのではなく、それが引き金となって、積み重なったものが雪崩となり、止まらなくなったのだと考えています。また、水曜日の学校で休みたいことを伝えて、出ていくときに「おつかれさま〜」と言った先生は、嫌味とかそんなのではなく、ただ反射的に帰っていく私を見ておっしゃったのだと思います。ただ、さっき来たばかりのひとが帰っていくことを気に留めることができないほど、朝の職員室はバタバタしていますし、その異常さに気づかないような環境であったとも言えます。

 診断をいただいて、休職してから退職するまでは、次に書きたいと思います。最初に症状を自覚したときに手を打てば、休職→退職して生徒や他の先生に迷惑をかけずに済んだのかもしれません。ですが、当時の私は自分の状態をちゃんと把握していませんでしたし、どう対処すればいいかもわかりませんでした。

 ゴールデンウィークも終わり、5月も終わりに近づき、一日の気温差が10度以上の日も出てきました。当時の私が体調の異変を感じ始めたのもこの時期です。もし、新任の先生で、自分の体調が変わっていることに気づいているのならば、そんなものと思わないでください。

また長々と書いてしまいました。
本日も読んでいただき、ありがとうございました。
  

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