映画『ゆるキャン』に見る地方再生の道
アマプラに来てたから映画『ゆるキャン』見ました!
いや素晴らしいの一言。こんなに腰の入ったお話になるとは思っていなかった。
作品テーマは「社会と個人の相克」だと思う。
ゆるキャン(正式名称「ゆるキャン△」)は、同名の漫画を原作とするロリコンアニメである。ちなみに「△」はテントのマークであって本田圭佑とは関係ありません。
内容は女子高生がキャンプをするというもの。見た目良し、性格良し、家も金持ちな彼女たちはタイトル通りゆる〜く、無理のない範囲で、得意を活かし、自分なりに工夫しながらアウトドアを楽しむ。土地土地の観光名所や美味そうなキャンプ飯、水曜どうでしょうパロをはじめとするツボを押さえたギャグなどが刺さり、これをきっかけにソロキャンブームが巻き起こるまでの大ヒットとなった。そのアニメが二期を数えた人気の絶頂で公開が告知されたのが、今回の劇場版だ。
発表されたティザービジュアルには、主人公のスーツ姿、大型バイク、そして酒など高校生に似つかわしくない画が並ぶ。なんと女の子たちはロリ女子高生を卒業し、社会人になっていたのだ!
このアニメを世俗の垢にまみれた生活の癒しとしてきたファンは「あのめんこい子たちも世俗の垢にまみれるのか……」と劇場版に対して情緒不安定になり、「社会人生活に疲れたしまりんの夢オチ」「なでしこが二児の母」「イヌ子は顔のアザを髪で隠してる」など阿鼻叫喚の未来予想が乱れ飛んだ。
こうして賛否入り混じる前評判を受けて始まった劇場版、社会人となった彼女たちが挑戦するのはいかなるスケールのキャンプか。と思いきや、なんと「キャンプ場の建設」に取り組むと言う。
人口減によりじわじわと寂れる地方都市の再開発。打ち捨てられた廃墟のキャンプ場としての再生がその旗印となり、働き手として地元山梨に集ったのはメインの女の子5人。音頭を取る観光推進機構所属の一人を除いてみんなボランティアである。
貴重な休日を費やし、都会に出ている者は長距離を移動して、山梨で肉体労働をする。移動は自家用車だが、ガソリン代も含めてその全てが手弁当。やっぱりこいつら金持ってるな!
この働きを賢しらに「やりがい搾取」だなどと言う者もいるだろう。しかし彼女たちの中にそんなバカタレは一人もいない。なぜなら金持ってるからこれは、地元山梨を盛り上げるためだからである。
休日もバラバラな彼女たちはそれぞれ予定の許す範囲で、得意を活かし、工夫しながら整備を進めていく。重機を乗り回すなど「工夫」のスケールは少しだけ大人になったけれど、高校生の頃のキャンプ風景と、おお、根っこは何も変わっていないではないか。
一方でキャンプ場建設の話が、主人公が編集に従事するタウン誌の長期企画として認められることとなる。地元のためのボランティアが自身の利益として返ってきた瞬間だ。
「社会と個人の相克」。社会への奉仕は個人の犠牲を伴うが、全ての個人がそれを避ければ社会は成立しない。そのジレンマをこの作品であっけらかんと解決したのはキャンプであったと思う。
キャンプとは「自然」に触れる行為である。自然はなにも指示してはくれないし、土を掘ったところで報酬なんぞくれるかどうか分からない。だが最初に土を掘り、なにも出てこず、何度も徒労を味わい、それでも堀った人々が築いた社会で我々は生活している。
人の指示を待ち拘束された時間だけ決まった報酬が発生するという近代会社員生活は「掘った人」が作る土台の上の上の上で成立しているものであり、「まずは掘る」行為に報酬が確実につかないことを「搾取」なぞとほざくバカタレにはキャンプが足りてない。
社会のために土を掘ることで、その志が巡って個人の利益になる。社会と個人の相克は「円環」の関係なんだというのがこの作品に込められたメッセージなのだ。たぶんね。
終盤、やはり社会人なので全てがスムーズにとは行かず、ちょっとビターな試練が訪れる。彼女らはその困難に正面からぶつかるのではなく、それを取り込んで共生する道を選んだ。これもキャンプの経験が成せるものだろう。「無理して立ち向かう」のはゆるキャンではない。ゆるく寄り添え。
かつて四尾連湖で成型炭をもらい、極寒の山中湖で日本酒屋に助けられ、クソ高い寝袋を親に買わせ、大人にたくさん助けられてきた彼女らが、大人の会議で堂々と「利」を説くシーンは、「あのめんこい子たちが……」と頬を熱いものが伝うのは必定である。
かくしてキャンプ場はオープン。家族や仲間の笑顔が溢れ、キャンプを通じて友情を育み、成長した少女たちが、キャンプに一つの恩返しをしたところで物語は幕を閉じる。美しい。
少子化、首都圏への一極集中。本邦における地方社会の状況は厳しい。山梨なんてまだマシな方で、東北などは近々生産年齢人口が半分を切るという試算もある。
この作品を見れば、その苦境を乗り越える術はキャンプにあると思えてこないだろうか。
何も語らぬ木々に触れ、怖いほど暗い夜空を見て、社会に生かされている自分を知り、同時に自分が社会を生かすという心を育てる。そこには指示系統も就業時間もない。ただ地のために掘り、掘った果てになにか出てくるかも知れない、原始の地平が広がる。これこそ「掘らせるからにはなにか出てくるべきだ」という思考に毒されたバカタレへの「再教育」と呼べるのではないか。
もう答えは見えただろう。地方を再生させるのは、再教育と、キャンプ。つまり再教育キャンプだ。
うそやで〜