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「俺はお前たちの物語にはならない」

この記事はテレビドラマ「MIU404」の悪役である久住目線になってみて考えた内容です。当然悪役なので悪いことしてます。
でも今はここで正しいとか間違いとか語る気はありません。

タイトルは、最終話で久住が警察に「名前は?」「どこで育った?」と聞かれ答えた台詞である。

何がいい?不幸な生い立ち?
ゆがんだ幼少期の思い出
いじめられた過去
ん?どれがいい?
俺は…お前たちの物語にはならない

「MIU404」最終話 #11 ゼロ

物語の中の久住の世界は、なんだかギブアンドテイクだけで成り立っているんだなあと思った。
久住はずっと余裕そうな表情をしていて、楽しそうに振る舞って、お金も持っていそうだし、いざという時自分を匿ってくれる人もいる。しかしそれは血の通わない等価交換のもとに交わされた契約で、久住が何も持たなくなった瞬間、久住が成川にしたように「それ、俺に何のメリットがあるん?」の一言で全部終わってしまいそう。実際、屋形船で久住が警察から殴られたという体で助けを求めたときも、彼の友人は頭から血を流す久住を見て心配するどころか「真っ赤じゃん」と笑うだけ。それはドラッグでラリってたからでもあるけれど、久住が面白がって見ていた薬物中毒者に、今度は自分が頭から血を流す姿をバカにされる始末である。

ただ、いくら悪役とはいえ、それを見て痛快だとは思えなかった。
こうなってしまった久住の過去は結局最後まで明かされないし、警察に捕まった後も感情をむき出しにしたりしない。それがすごくよかったと思う。
彼に悲しい過去があったと分かれば、物語の中の警察も、わたしたち視聴者も、勝手に「久住はそうならざるを得なかった」という自分が処理しやすい物語を作り上げて消費するだけで、彼に何かを与えるわけではない。
誰だって自分の物語のなかで生きている。自分が理解しやすいように、信じたいように世界を見ている。ニーチェが言ったように事実などなく、解釈しかない。真実はいつもひとつじゃないんだよコナンくん。

今後彼に寄り添いたいと思う人が現れたとして、その人が思う「幸せ」とか「救い」を与えようとすることは、本当に彼を救うのでしょうか。
どんなに優しくしてやっても彼が立ち直らなかったとして、痺れを切らして「ここまでしてもらったんだから喜べよ」「これで救われないなら、立ち直れないなら、多くを求めすぎってことだよ」と与える側のエゴをぶつけることは本当に優しさですか?他人に「いいことをした」と認められるべき行為ですか?

そもそも、若くしてアンダーグラウンドでお金も人脈も持っているならば、これまでの人生でそうならざるを得ない事情があったのかもしれないとつい考えてしまうけれど、その発想さえも傲慢ではないですか。彼のやったことは日本の法律上は裁かれる対象になるけれど、そんな反社会的なことをした彼は「堕ちた」ということになりますか。こんな酷いことをする人間になってしまったということは、相当悲しい過去があったはずだ!と決めつけるのって、「普通」に「真っ当」に育ったならこんなことはしないはずだ、という前提条件ありきの物語に落とし込んでいることにはなりませんか?

このドラマで描かれる伊吹と志摩の相棒愛は美しいし、わたしも大好きなんだけど、でもそれは決して全員がそうあるべき状態ということにはならないよね。
久住の境遇を悲しいだとか、人はそうあるべきじゃないだとか、愛だとか仲間だとかの美しさを語るつもりはない。わたしは自己犠牲を持て囃す風潮も嫌いだし、無償の愛を押し付けることが有り難がられるべきみたいなのも嫌だ。誰かが決めて、マジョリティの人たちが自分のなかに落とし込んでいる物語を「この世の真理」とか「正しさ」という言葉にしてこちらを殴らないでほしい。

お前の考える「正しさ」を盾に一方的にこちらを殴り、ジャッジできる立場だと思い上がるな。

これさえも勝手なわたしの物語だけれど、自分を久住に憑依させてみると、そんな叫びを聞いたような気がしました。

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