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高校の教員を10年以上勤め、定年まで教員をしていくつもりが、起業して学校向けのソフトウェア会社を作った話①

いま、私は「ぱんぷきんラボ」という通信制高校の校務支援システムを開発する会社を起業して、代表(社長)をしています。

というと、華やかで順風満帆なイメージをもつかもしれませんが、現時点でまだまだ数人規模の会社ですし、そういう意味では誇れる規模の会社ではありません。

ただ、想いと誇りをもって取り組んでいる事業はとても楽しく(苦労は絶えませんが^^;)、人生の活力になっている仕事について記事にしていきたいと思っています。

初回は、なぜ安定職の教師という仕事を辞めて会社を作ったのかということを赤裸々に語っていきたいと思います。



通信制高校の教師として

私はとある国立の教育大学の大学院をでたあとに、24歳で教員になりました。最初は公立の採用試験を受けましたが、2次試験で不合格になり途方にくれていました。その後、私立学校の採用を見つけようと思い、数学と情報の教員免許を持っていたので、とにかくどちらでもいいので正教員の求人をあさっていました。

そして、たまたまとある通信制高校の数学の公募があったので応募をしました。そのほかにもいくつか応募していたのですが、どれも有期雇用の講師からステップアップして正教員を目指すというものが多く、いきなり正採用してもらえる職場にひかれ応募した結果、とんとん拍子で採用され、あれよあれよと入職しました。

正直、当時(2007年頃)は通信制高校というのが、社会の認知度がなく、恥ずかしながら私も仕組みをよくわかっておらず、今考えてもよくそんな安易に就職したとおもうほど短絡的でした。なぜそのような短絡的に就職したかというと、職場には失礼ですが公立の試験を翌年以降も受けようと思っていたので、その間のつなぎにしかおもっていなかったという発想からです。いま私は会社の代表をしていますが、そのような求職者が来たら迷惑極まりないので本当に失礼な若者でした。

入職後には初年度から担任を持ち夢の教師生活をスタートしたわけですが、本当に驚きの連続でした。通信制高校には事情を抱えた生徒が多くいること、また10代の生徒だけではないことなど、生徒の特徴をあげだしたらきりがないほど特徴の塊でした。

例えば、不登校の生徒は小中学校であればクラスに1人・2人いるか、もしくはいないか程度だと思いますが、一方、通信制高校に入学してくる15歳の生徒はほとんどが不登校経験者です。そのほか、60歳の生徒もいて集合写真をとると当時24歳の私が教師に見える理由はスーツを着ていることだけだという面白現象がおきたりしていました。

私にとってこのような経験は、斬新で鮮烈なインパクトを与えられ、暑苦しい責任感がメラメラと燃えてきてやる気メーターが振り切れていたことを覚えています。

しかし、そのような無知な暑苦しさは、不登校経験をもつ生徒たちには迷惑が多かったとおもいます。なぜかというと、通信制高校に入学した目的は全日制高校にいけないということであって、それは彼ら彼女らにとって希望をもって高校にはいってきたというより、社会生活に順応していくためにゆっくり歩みを進めていくという感覚のもので、私が暑苦しく干渉することが必ずしも歓迎されるものではありませんでした。(一方で、ご年配の生徒達には初々しい私の姿は歓迎されていたと思います。)

そういった状況の中、心にさまざまな思いや感情を抱えて通信制高校を選んだ生徒たちに寄り添うノウハウを培わなくては、彼らの人生の一部をあずかれないと思い、知り合いのカウンセラーに実践レベルでの教育相談とはどういうものかというのを電話でよく教わったのを覚えています。そこから教育というのは一方的に知識や技能を与えていくだけでなく、個々に寄り添い個々の成長を支えていくものだということに気づかされました。

そういった経験を経て、紆余曲折に1年間を終えた後、ひとまず3年間担任を精一杯やりぬき、全うしてから通信制高校を辞めて全日制高校に転職しようとおもい続けていきました。そして、3年間たち担任した生徒を送り出したあとに、全日制高校に転職したい自分の大義は何だろうと考えるようになりました。結局は、マイノリティである通信制高校を心の中で勝手に見下していただけであって、教育格差をつくりだしていたのは自分なのではないかと思い、この通信制高校でもっと自分ができることがあるだろう、やりきっていないものがあるだろうという思いの中、転職ではなく、今いるここの職場に残り成長していくことを決めました。


学校の発展とICT

私が勤務していた学校は時代に先駆けてICTへの投資を積極的に行っていました。恥ずかしながら当時の私は情報の教員免許を持っていましたが、あまりそこに興味がありませんでした。それより運動系の部活で汗を流したり、教科指導や生徒指導に必死な毎日でICTは他の人が勝手にやってくれるだろう仕事と勝手に割り切っていました。

学校には校務分掌という係活動のような役割があります。例えば進路指導部とか、生活指導部とかです。当時の私は生徒指導部担当だったのですが、とある年から「システム管理」という校務分掌に任命されました。情報の教員免許をもっているから当然の話ですが、不満の気持ちでいっぱいでした。それはシステム管理なんて生徒とかかわらないし、なにも楽しくないという思いだったからです。20代の教員だったら結構そう思う人が多いのではないかと思うのですが、実際は学校システムというのは学校運営の中核を担うので実際はとても期待されているポジションです。実際に副校長から、普段の仕事ぶりを評価しての抜擢だったという事実もきいていたので、期待されたうえでの配置でした。そして、実際にまかされる仕事ですが、システムの仕様書を理解して何10ものオペレーションを実行するというもので、いまおもっても、教師がやる仕事か!?とおもうくらいSE的な日々を過ごしました。

そして、仕事を通してできることが増えたのちに、一方でこのシステムが実際の運用にミスマッチを起こしていることも理解しました。それはシステム仕様というのは学校運営が変わるたびに改修をしなければならないのですが、改修費用の予算が組めずどんどんミスマッチが増えて、もはやデータベースに存在するデータでは運用できず、別にEXCEL管理するという実態であって、こうなったら自分でつくってしまおうという気持ちがふつふつとわいてきました。

当時、学生時代に勉強したつたないスキルを活かし、さらに独学で学習を進めRDBを用いたセカンドシステムを一人で構築しました。帳票作成までできるシステムをスクラッチで構築したところ現場からはかなり好評で、そこからは続々とリクエストが集まり結果的に機能数が100を超えました。もはや教員なのかSEなのかわからない仕事を両立し、仕事量もすごいことになっていました。

当時の私のモチベーションは、システムを構築することで学校運営が円滑になれば学校が発展するし、それによって間接的にも生徒の利益につながると思っていました。そのような思いの中、自分の中でも歯止めがわからなくなりどんどんシステム開発をして肥大化したシステムに成長していき、短期的にはとても学校に貢献したと思います。一方では、管理者が個人である肥大化したシステムは、その管理者が不在になれば組織のボトルネックになりかねないこともあり、その点では迷惑をかけたものだったと思っています。(もちろん管理職も承知のうえで、業務の指示として進めたわけですが)


キャリアチェンジのきっかけ

短期的にも学校運営に貢献した私は、それなりに内外で評価を受けました。内部では職員表彰をいただいたり、35歳くらいで私立高校協会における優秀教員表彰、培ったスキルを活かし総務省主催の異能Vationというコンペティションにも応募し部門賞をいただいたこともありまして、多少を気をよくしました。そういうことをきっかけに学校内だけでなく、社会を巻き込んで多くの学校をよくしていきたいという想いがわき、自身の学校でのICT活動を教育系の学会や研究会で発表するというところまで活動が発展していきました。

正直、学校運営を改善した、という(実際は短期的に)思い上がりをして天狗になっていた私は外部への発表においても十分に評価されるものだろうと思っていました。しかし、表面的には褒めていただいたこともありましたが、それより「面白いもの作っているけど、個人のスキルであって汎用性なくない?」とか、「あなたの学校だからできることで、うちの学校で真似できるような工夫ではないなー・・・。」などけっこうショックをうける否定的な意見を言われたことを忘れません。

ただ、その通りだと思いました。研究会や学会は発表会でなく、その目的は先進性とか普及性とかの結論を見出すことであって、つまりその研究の結論がなにで、どういう趣旨なのかを示す必要があります。しかし、私がしていたのは「自分がんばってますけど、すごくない!!」みたいなこといっているだけだったと今ふりかえっておもい恥ずかしい限りです。なので、私が考えなければいけなかったのは、自分ががんばって行った実践についてその手法を一般化することであって、それが求められていたのだと気づきました。大学院まででてその程度の自分が恥ずかしく、正直そのあとはしばらくおとなしくしてようとしり込みしてしまいました。(結果的には翌年の学会発表では改善してリトライしました)


起業へのチャレンジ

起業したのは私が38歳のときです。また、起業は学会での失敗があった35歳くらいからずっと考えていました。学会での失敗はあくまで手法を誤っただけであって、自分の当初の理念である社会全体のICTの発展をもって学校教育を良くしていくということを否定するものではないし、それを実現するには組織の一員ではなく自分で組織を作り、自分の理念で歩んでいく必要があると思ったからです。

もちろん学会発表でのリベンジでよい結果が得られたことは満足でしたが、それよりこのまま理論研究を進めるより、実際にプロダクトを開発して実務レベルで成果をだしていくほうが向いていると思い、起業の方向に加速していきました。

そして、実際にプロダクト開発を行いその製品を普及することで学校ICT利用の促進を図り、そこから事業発展をさせていくことが自分ができるセカンドキャリアとしての使命だと感じ、40歳までに実行していくことを決意しました。

結果として、2021年に会社をつくり、株式会社ぱんぷきんラボをスタートさせたわけですが、本当に想いをつめまくってスタートさせた会社ですので、地べたはいずりまわってでも目的を達成させる覚悟でしたし、実際かなりの苦労を乗り越えてきたといまおもえば振り返ります。

そして、現在起業して3年が経過しましたが、この当時の理念はまったく揺らいでおらず、こういった理念、つまり想いが人を動かしていくものであると確信しています。

ただ、当初は教員しか社会経験がない自分において起業するためにやらなければならないものが多く、さまざまな面で厳しいおもいをたくさんしました。特に創業直後は、まだ売り上げがたたないので、結局副業(大学と専門学校で講師)しながらしのいだのですが、今考えてももう1年くらい準備期間おいておいたほうが安全だったとは思います。(ただ、こういった苦労経験をしたことで成長したということも間違いないです)


起業という志

かっこよく志とかきましたが、つまり想いです。私は広く学校のICTを発展させていきたいという想いがあるということを触れてきましたが、それだけでは漠然としていて、さらに掘り下げていくことがビジネスにおいては必要な要素です。

それを考えたとき、やはり自分は通信制高校に通う生徒たちの成長への想いというのがすてられないし、その生徒たちの成長を支えていきたいという意志が強かったです。

これらを複合したとき、私の創業ストーリーが出来上がったと感じました。通信制高校という領域において、ICTの発展に寄与していくということにおいて最も使命感を抱けると思い、それが自身の志として追求できるものだと確信しました。

本当にゼロから何もないスタートでしたが、テクノロジーを通して通信制高校の生徒たちを支えていく、それが新たな自身のモチベーションとして新たな人生が始まりました。


次回、ぱんぷきんラボの創業直後から事業開始の苦労をご紹介します!!
お楽しみに!!


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