短編小説 傘なし
傘を持っていなかった。一緒に入れてくれる友達もいなかった。真由子は下駄箱にあるはずだったローファーを諦め、白い上履きで駆け出した。
電車に濡れたまま乗ったら嫌がられるだろう。今日はずっと走って帰る。
思ったより雨は暖かく、真由子を濡らした。涙は出ない。雨に紛れて今なら出てきてもいいのに、慣れてしまったようだった。
きっかけなんてわからない。他人の気持ちもわからない。真由子自身の気持ちだって自分で持て余しているのだ。ただ、真由子の持ち物をゴミにして笑っている人がいてその人たちは楽しいのである。真由子にはわからない。
怒り?悲しみ?恨みをもって復讐などそんな強い気持ちはもうない。家に帰って泣くような日もすでに終わり、学校にいる人に寄付をして帰るような心持ちでいた。
商店街に入る。パシャパシャと真由子が走る音と夕方の景気良い笑い声が妙に音楽で、真由子は走る速度を少し落とした。楽器を吹けたなら、どんなに楽しいだろう。そんな事を考えた。
傘を差す少年が向こうからやってくる。真由子は思わず視線を下げようとして、その少年の顔を見た。
頬が濡れた気がした。いや、真由子は全身が濡れているのだ。
ネイビーの傘だった。ネイビーのジャケットだった。彼の髪の毛は雨だというのにこざっぱりと整っていた。
同じ年頃の少年に、話しかけなくては後悔すると思った。真由子はネイビーの少年に近づくと、一度息を吸ってから声を出した。
「傘に入れてくれませんか?」
「えっ」
少年は戸惑い、びしょ濡れの真由子を上から下までじっと眺めた。真由子はその間少年の肩を見ていた。肩は少し濡れていた。傘が小さいのかな、と思うと涙が零れた。
「どうぞ」
少年は真由子に傘を握らせた。少年の手は温かかった。そんなつもりじゃなかった。少年は真由子が傘を握ると、その場から走って去っていった。
「あ…」
真由子はそれをぼんやりと眺め、濡れたまま傘をさすのをしばし忘れた。
変な人だと思われたんだ。真由子の涙は止まり、代わりに頬が上気した。恥ずかしかった。申し訳なかった。彼は濡れて帰る羽目になった。
なんで、と思う。しかし遅かったし、あの衝動は止まらせることが出来なかったのだ。
しかたなく真由子は傘を差した。ネイビーの傘、どうしよう。返すにしても、学校に持っていけばとられちゃうからなぁ。ふふ、と笑いが漏れた。変な人になっちゃった。
次に会ったら返せればいいが、ネイビーの少年は会いたくは無いだろうな。
上履きは水を吸って重くなる。水を払うように一度地面を蹴った。降りしきる雨が何滴か、空へと戻っていく。