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【2025年の目標とか】渋らない大人
2024年を振り返ろうと思っているうちに2025年が始まってしまって、では2025年のあれこれを書きましょうね、と思っているうちにもう20日も経っていた。油断ならない。
今更だけれど2024年を振り返ると、よく走った1年だった。
仕事もよく頑張ったと思うし、細々と新しいことにも挑戦できたし、しょっちゅう誰かしらが泊まりにきたし、子どもの友達を集めてドッジボールチームも作ったし、盛りだくさんな1年だった。
悔いもやり残したこともない。
1年間元気に走り切ったな、という気持ち。
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2024年は、まじで小僧元年だった。
息子の友人が毎日のように遊びにきていて、盤石な悶着暮らしの上に、さらに悶着が乗っかるという有様。信じられますか。
長いお付き合いの方はご存じだけれど、ハネ家と言えば悶着で、悶着と言えばハネ家だったのに、さらにそこに新しい悶着がトッピングされる、悶着マシマシ満身創痍絶好調な毎日だったのだ。
息子は我が家でもっともエネルギッシュな人材だけれど、彼の友達はそのさらに上を行くエネルギッシュさで、なんて言えばいいのか、こう、うまいこと言うならば、そう「い、生きてるね……!!!!!」って感じなのだ。
良いとか悪いとかそういうことはいったん置いておいて、「おお、生きるエネルギーを可視化した生き物よ」という気持ち。
そのエネルギーでどこまでも走り抜けてほしい。
彼らの有り余るエネルギーが眩しいやら羨ましいやらもったいないやらの気持ちの行き先が、おそらくドッジボールチーム結成だったんだろう。
メンバーが着実に増えており、引くに引けないことになっているけれど、これはこれでちょっと面白いのでもうしばらく流れに身を任せて面白がっていようと思う。
彼らのおかげで日々たくさんの刺激があって、ちっとも退屈しない。
眼が眩むほどの生きるエネルギーを浴びているせいか、クヨクヨしたり自己嫌悪に陥ったり、世を儚んだりすることがものすごく減った。
これはもうほとんどセラピーだな、と思っている。
悶着はマシマシになると、セラピーになるというまとめ。
体力もめっちゃついたよ。走ってないのに。
もちろん、同時に長女のお友達や、末っ子のお友達も遊びにきていたけれど、彼らはまるで小鳥または小鹿のようで、なるほど人間関係というのは合わせ鏡であるな、と思う。
なんにせよ、自宅が児童館のような1年だった。
当然今年も継続されるけれど、楽しいのでまったく問題ない。
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2025年の目標を話す前に、私にとっての小さくて大きな課題についてお話したい。
日々せわしなく暮らしていると、ほら、後手後手になるものってみなさんあるじゃないですか。特にフリーランスの皆さまに置かれましては職住一体の暮らしですし、お化粧だとか、洗濯だとか、掃除だとか、ほらあるでしょう。後手後手になるあれそれこれ。
私の場合、それが風呂。お風呂なのだ。
子どもたちがいるので、食事は変わらず作ることになるし、洗濯機だって体操服が足りなくなっては困るのできちんと回っていく。私は掃除機が体の一部の掃除機おばさんなので、掃除機は自動的にかけることになるし。そうなるとほら、お風呂がね、お風呂がさ、後回しになってなって、なって挙句、私いつお風呂に入るの、な暮らしになるってわけ。
そもそも、お風呂って家に一個しかないし、夕方から夜にかけては争奪戦だ。子どもたちがそれぞれひとりで入るようになってからは、夜はひっきりなしに誰かが入っている。私だって、20時くらいに入って、22時には寝て、次の日元気に就業したいのに、お風呂のゴールデンタイムは子どもたちが入っている。
子どもには21時に寝てほしい敬虔な睡眠信者なので、風呂を譲ることはちっともやぶさかではないのだけど、でも、もしもお風呂がもうひとつあるならば、私も、私だって、その時間にすべてを放り投げて風呂に入りたい。
でも実際は20時台ってやることが永遠にあるし、洗い物をしたり、タオルを畳んだり、お便りに目を通したり、急に明日持っていくとか言ってる縄跳びを探したり、取れたボタンを縫い付けたり、お母さんは忙しい。
ましてこれ、日々のせわしなさがちょっとでも増すと、もうほんと風呂どころじゃないよねって、ていうかそんなの思いもしないくらいに、風呂なんて脳裏から抹殺されていく。
深夜11時半くらいにいよいよ、「ああ、風呂…風呂」と記憶の尻尾を掴んで風呂のことを思い出すけれど、その頃には疲れ果てて、リビングの片隅で寝倒れてしまったりする。
強い意志で風呂に入られる日もあるけれど、疲れていると、今度は風呂から出るエネルギーが足りなくなるのだ。
やっとの思いで風呂へ辿り着いたけれど、入るだけで精神的なエネルギーを使い果たして風呂から出る決断ができない。
さっき頑張って決断して風呂に入ったのに、もうまた新しい決断を迫られていることに納得できなくて風呂から出渋ってしまう。
散々入り渋ったのに、今度は出渋る。これで40歳を過ぎているんだから人間ってそんなにきちきち成長ってしないんだな。ね。
そして入り渋って出渋って、どうにか風呂を終えたとしても、ほら、髪の毛を乾かして、なんかいろいろ塗るもの塗って、髪の毛にも頭皮にもあれこれつけて、そうれ今度はドライヤー。もう無理だよ。
時計を見れば3時とか。なんでなの。もういろいろ無理じゃん。全部無理。無理。
そんな気持ちで布団に入って、翌日には爽やかな朝がやってきて、7時30分に子どもたちを送り出す。もはや芸当だ。
ちなにみ寝落ちした場合は、朝、子どもたちを送り出した後風呂に入るのだけど、それはそれで朝の解放感とか、時間の残高とか、諸々が相まってやっぱり風呂に入る決断も、出る決断も困難になる。
「ほら、風呂から出るよ!」と自分に声をかけるのだけど「今?」と私が反抗してくるので困っている。
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疲れるほどに私はなんでもかんでも渋る癖があって、こと風呂になるとそれがまことに顕著に表れてしまう。
1日にあれこれと渋っている時間をすべてぎゅっと寄せ集めたら3日くらいでちょっとしたオブジェが作れてしまうと思う。
つまりそのくらいたくさんの時間を私は渋って生きている。
1月、緩やかに埋まっていくスケジュールを見て、真っ先に思ったのが「頑張って速やかに風呂に入ろう」だった。
渋らずに風呂に入ったり出たりできれば、オブジェを作る時間で夕飯の作り置きをしたり、溜まった書類の整理をしたりできて、あれもそれもくるくる回っていくはずだ。
今年の目標は「渋らない」。
2025年は渋らない大人になりたい。
今年もよろしくお願いします。
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