留学しくじり先生:10年前の私みたいになるな!
さっき恐ろしいことに気がつきました。
今年は2024年、つまり、留学した2014年からちょうど10年経つらしい。
そして、その節目の年に、奇遇というべきか、専門分野の中でもかなり大きな国際学会が、私が留学していた国、フィンランドで開催されるのです。
先月末、原稿を提出したので、無事査読を通過すれば、フィンランドに行くことができます。(ちなみに記事の写真は、2018年にフィンランド再訪したときに撮影したものです。どこかの森です。)
それで思い出してしまった――。
10年前の留学にはたくさんの後悔が残っていることを。
これから書くのは、留学の機会を120%使いこなすことができなかった10年前の私の後悔です。
何が私を留学に向かわせたのか
転機①:2週間のアメリカ研修
大きな転機は中学2年生の夏にありました。
私が住んでいた地域では、毎年、夏休み中の2週間に中学生と高校生を数名アメリカに派遣するプログラムを実施していました。
小学2年生の時から公文で英語を学んでいた私は、習った英語がどれくらい通用するのか試してみたい気持ちがあったこと、アメリカの統治下にあったころ必死に英語を勉強してきた祖父の後押しも受けて、そのプログラムに参加しました。
もう、何もかもが新鮮な2週間でした。
アメリカの牛乳がとにかく美味しくないこと。
不健康な食事の連続で大学の学食のサラダバーが輝いて見えること。
Harry Potter の発音がうまく言えず全然伝わらないこと。
世話役の大学生と毎朝ランニングしながらつたない英語で話したこと。
アメリカあるあるの無駄に手数の多いハイファイブを覚えたこと。
ある日突然英語を英語として理解できるようになり始めたこと。
14歳は単純です。
2週間じゃ足りない!!高校では1年留学したい!!と思ったわけです。
そこで、もっと英語力をつけるためにも県内屈指の国際科に進学しました。
転機②:留学支援プログラムの開始
とはいえ、自費で留学に行こうとするととんでもないお金がかかります。
経済的に困窮した家庭ではなかったとはいえ、簡単に留学に行かせてもらえるほどの余裕はさすがにありません。
そこに朗報が飛び込んできました。
県が高校生対象の長期留学プログラムを全額助成でやってくれるというのです!!こういうのをたなぼたというんでしょうか。
いやいや、真面目に言えば、「計画された偶発性」に近い出来事ですね。この理論はあまりにも有名すぎて、キャリア関連の専門家でなくても、ご存じの方は多いと思います。詳細が気になる方は、下記資料のp.46「プランド・ハップンスタンス理論」をご覧ください。
まあ、ここではキャリア理論うんぬんは余計な話です。
とにかく、高校生になった私は、選抜を通過さえすれば、経済的支援を得て留学するチャンスが現れたことに運命さえ感じました。
これで、留学したいという気持ちと機会の二つは揃ったわけです。
なぜフィンランドに?
あと必要なのは、留学する明確な目的意識でした。
当時、私が考えていたことは二つありました。
一つ、英語くらいメジャーな言語は、日本でも十分身に付けられること。つまり、語学のためだけに留学するのはもったいない。
二つ、将来は教師になりたいから、教育の面で学びがある国にしたい。その留学プログラムは、本当に本当に大盤振る舞いで、留学先として選べる国が19カ国もありました。もちろん、選抜の結果次第で第一志望が叶うとは限りません。でも、国を選ぶことができたんです。ちゃんと、自分の将来につながる留学先を選ぼうと思っていました。
二つ目に関して、もう少し考えていることがありました。
当時、学習指導要領が変わったばかりで、いわゆる「脱ゆとり」に向かっている時期でした。学習内容が増え、授業時数も増やさなければいけないかもしれない、というニュースまで流れてきました。
当時の私は、「え?なんで増やすの?ただでさえ、勉強大変なのに、『北風と太陽』の北風みたいなことするじゃん」と思っていました。しかも、授業は暗記中心でつまらない…。
そんなことを考えていたのが、たまたま意見文を書く時期と重なったので、なぜ日本が「脱ゆとり」路線をとるに至ったのか、他の国ではどうなっているのか、調べてみることに。
2010年代前半は、2000年代の日本の学力が低下した!と騒がれたことを背景に、その根拠となった国際学力調査(PISA)でトップレベルの成績を残したフィンランドにまだまだ注目が集まっていた時期でした。
フィンランドでは、授業時数が日本よりも少ない中で、いわゆる「チョーク&トーク」ではない授業法を中心に教育が展開されているらしいこと、そんななかで、必死こいて勉強している日本の子どもたちより成績がよかったらしいことを、16歳の私の浅はかな知識と検索力で知ったわけです。
【補足】しかし、そのような理解は、メディアやフィンランド礼賛本を鵜呑みにしすぎた表層的なものだと今は思います。実際は、PISAでの日本の学力が世界トップレベルで、フィンランドの成績は下降傾向にあります。
詳細は、下記の資料をご覧ください。
OECD PISA 2022 Results: Factsheets Finland
佐藤博志・岡本智周(2014)『「ゆとり」批判はどうつくられたのか―世代論を解きほぐす―』
こうして私はフィンランドに対する、半ば”幻想”に近いものを抱いたのち、「でも実際のところは行ってみないとわからないし、学校だけじゃなくて生活まるごと知ることでしか見えてこないこともあるかもしれない」と思い、フィンランドを第一志望国にしました。
そして、選抜の結果、念願かなってフィンランドにいけることになったのです。
留学での収穫と後悔
「しくじり先生」などと、わかりやすすぎるタイトルをつけましたが、収穫がなかったわけではありません。いい発見もありました。
収穫編
①高校の授業はそれなりにつまらない
フィンランドの高校の仕組みは、日本人にとっては、大学のイメージの方が近いかもしれません(※あくまで10年前の情報です)。
私が通っていた高校は5学期制で、毎回自分で時間割を組みます。
数学は、発展クラスと基礎クラスで分かれているし、教え方が自分に合っている先生でとる授業を選ぶ子も多かったです。
それから、フィンランドの学校体系は、基本的に6-3-3制で日本とあまり変わらないのですが、中学校最後の年で、もう1年学び直す選択ができたり、高校もゆっくり時間をかけて勉強したい子は、4年計画で履修を組むことができたりします。
そういう仕組みレベルでの違いで驚く点はいろいろあったにせよ、先生の授業そのものが目から鱗が落ちるほど面白いなんてことはありませんでした。
フィンランドの教育の特質を、授業の中、学校の中に見出すことに、限界を感じたのです。重要なのは、北欧型の福祉国家の枠組みのなかで教育の在り方も考えられていることでした。
②フィンランドの教育ではエリートが育たない?
それから、私は、フィンランド人のフィンランドの教育に対する考え方が知りたいと思い、とにかくいろんな人に聞きまくりました。
その中で最も印象に残ったのは、「フィンランドの教育は、質の高い国民を育てているかもしれないけど、エリートは育たないんだ」という意見です。
【補足】たしかに、フィンランドでは、エリート育成よりも学力格差の是正に力を入れていると言うことは度々指摘されています。(例えば、志水宏吉・鈴木勇編著『学力政策の比較社会学【国際編】―PISAは各国に何をもたらしたか―』)
私は、留学してようやく、教育の目的はいろいろあり得るということ、何がよい教育かなんてテストの結果だけで決めるもんじゃないということを、思い知ったのでした。
そうして教育の奥深さを知ってしまった私は、こうして教育学研究の道に進むに至っています。
③頑張らないことの大切さ
急に毛色の違う発見ですが、私にとっての「当たり前」を最も覆した気づきだったと言えます。
当時の私は、きっと多くの高校生がそうであるように、勉強にも部活にも熱心に取り組んでいました。
少し異常だったのは、遊ぶことよりも、休むことよりも、勉強や部活を優先していたことです。まるで、下りのエスカレーターを逆走するように、「止まったらおしまい」というメンタリティで、物事に取り組んでいました。
それが当たり前だった私にとって、夜の10時を過ぎても学校のレポートを書くことや、空手の稽古日を増やすことを、本気で心配するホストマザーに、はじめは少々面食らいました。
でも、フィンランドの人たちは、いろんな方法で人生を楽しむことを知っているだけだったんです。
テラスに座ってコーヒーを飲みながら景色を見る。
家族でおしゃべりしながらソーセージを焼いて食べる。
近くの森で散策する。
ベリーやきのこの季節にはそれをとりにいく。
たまに時間のかかる料理をしてみる。
ちょっと街までサイクリングする。
ここに挙げたようなことは、彼らにとって、ただの「休みの日の過ごし方」というよりも、「人生に必要な時間」のようでした。ああ、私はなんて狭い視野でしか世界を見てこなかったんだろう。
ちょっと話が逸れますが、フィンランド人は、「疲れた」と「眠い」をあんまり厳密に区別しません。単語としては、それぞれに対応する語が存在するのですが、日常的には、väsyttää(疲れさせる)という言葉で表現します。
例)Olen väsynyt. (オレン ヴァシュニュt)
ホストファザーに、「疲れてないのに眠いときもあるじゃん、なんで区別しないの?」と聞いたら、「疲れたら眠いし、眠かったら疲れてるってことでしょ」と言われてしまいました。
つい最近、睡眠研究で有名な柳沢教授が、ある動画の最後に、「日本人が昼間眠いというのは、国際的にみて異常」とおっしゃっているのを聞き、ハッとしたんですよ。どうやら、ホストファザーが言っていたことは、生物的には理にかなっているみたいだ…。
後悔編
①日本にいるうちにフィンランド語をもっと勉強しておけばよかった
出発前、フィンランド語の本を買ってはみたものの、あまりにも馴染みのない言語で、まったく頭に入らず、覚えたのは挨拶と数字くらいでした。
その結果、せっかく1年いたのに、最初の4カ月くらいは、英語で過ごしてしまいました。
もし、もう少し早い段階でフィンランド語が話せるようになっていたら、友達の幅も、とれる授業の幅も、現地の人たちとの話のレベルも、メディアの理解度も格段に違って、生活の解像度がもっと上がったはずでした。
当時は、SNSがまだそんなに発達してなくて、私もぎりぎりガラケーでしたから、動画で勉強するなんて発想もなかったんですよ…(という言い訳)
ホストファミリーが決まった時点で、もっと頻繁にやりとりするとか、頭働かせてどうにかフィンランド語を覚えろ!!と10年前の自分に言いたい。
②現地で人気のあるスポーツのクラブに入ればよかった
私は、高校の部活で空手をやっていたので、フィンランドで空手道場に行けば、少しは日本文化を伝えることに貢献できると思い、フィンランドでも空手をやろうと決めていました。
ところが、いざ近くの道場に行ってみると、日本人の先生が教えているらしいじゃありませんか!そこで引き返したらよかったものの、先生に気に入られてしまい、結構熱心にやっていくことに…
もちろん、そこで出会った人たちはみんな本当に素敵な人たちで、今も交流が続いているのは、学校で出会った友達よりも空手の友達なので、その点に後悔はありません。
ただ、今振り返れば、学校で仲良くなった子と同じスポーツクラブとか、フィンランドで人気のあるフロアボールのクラブとかに入っていれば、フィンランドのもっと深い部分を知ることができたんじゃないか、と思ってしまいます。
③教育学のこと、フィンランドのことをもっと調べておくべきだった
最大の後悔は、留学前の下調べ不足にあります。
ついこの間、「良い問いを立てるには調べ学習が重要だ」ということを書きました。
留学と探究のための調査は、別物であっていいんですが、私の場合は、曲がりなりにもフィンランドの教育から何か示唆を得ようと思って留学したわけです。今思えば、貴重な調査の機会だったにも関わらず、「フィンランドの教育ってどうなっているんだろう?」みたいな漠然としたひどい問いで、飛び立ってしまった。
そういうことを指摘してくれる大人が周りにいなかったという、めちゃくちゃ他責思考の指摘もできますが、少なくとも、フィンランドの教育に関する本はいっぱいあったわけですから、そういう本をたくさん読んでおくべきだったんですよね…。「百聞は一見に如かず」みたいな思考は本当によくなかった。
「百聞は一見に如かず」とは言っても、知識がないと、行ったときに何に注目して見聞きすればいいのか、わからないんですよ。「猫に小判」「豚に真珠」「馬の耳に念仏」です。
インターネットでいくらでも調べられる時代です。もちろん、出てくる情報は玉石混交なので、書籍も含め、できるだけいろんな媒体から情報を集めてくるに越したことはないです。とにかく、留学先の国で何か特定のことを学んできたいと思うなら、調べつくしてもわからないことが何かを明確にしてから、その国に行くことです。
留学の質を左右するのは留学前の時間の使い方
留学自体を目的にするのがだめだとは言いません。
でも、留学を充実したものにするには、留学を通してどうなりたい、どうしたいか、という目的が不可欠です。
そこまではありふれた話です。
私がこの記事で伝えたいのは、目的を達成する手段まで綿密に用意して留学にいけるかどうかも、同じくらい重要だということです。
もちろん、収穫編③で示したように、意図しない発見はあります。それもまた留学の醍醐味ですし、それこそ「計画された偶発性」で、留学期間をギチギチに計画で固めないことも大事だと思います。
でも、計画通りにいかないことは、計画が不要であることを意味しません。計画を立てるというプロセス自体が、自分が留学期間をどのように過ごしたいのかという方向性を与えてくれます。
もし、どうやって目的を達成するのか、それが行動目標で明確にできない場合は、目的が曖昧過ぎるか、知識が足りないかのどちらかです。
1年以上の留学に行く方へ。
短期留学なら新鮮さを求めても構いません。
その国でしか学べない何かを求めて行くのであれば、留学先の国こと、学びたい分野のこと、できる限り調べ尽くしてみませんか?そして、明確な行動目標を立てて行きませんか?
10年前の私みたいにならないように。