第1回「川柳句会こんとん」の投句の感想

 第1回「川柳句会こんとん」に投句をされた方それぞれの1、2句と軸吟中3句の感想を書きました。作品と作者の方のお名前はスプレッドシートから引用しまして、お名前の記載が無い方は参加者番号で表記しています。また、感想の中にちょくちょく出てくる「発話者」というのは各句の中の主人公?みたいなものとしてとらえています。
 誤読、誤解があるかとも思いますが、書いていくうちに興に乗ってしまって、みなさまの呆れた顔を想像したらもう楽しくて楽しくて。それに、名詞のイメージでおなかいっぱいです。

走ったぶんだけ鰯がもらえる 参加者番号1

 懸賞が鰯の、人間が参加するマラソン大会?とおもった。ただ、マイワシなのかカタクチイワシなのかで、自分だったら走るやる気が変わると思ったけれど、そもそも割に合うのか合わないのかなんか微妙だな。もしかしたら走るのは人間ではないかもしれない。マグロのマラソン?漢字で鰯と表記するのも作者のこだわりがあるのかな。

その前にギャル語で神を疑おう 参加者番号2

 「若者文化」という言葉や現在のそれにまつわるあれこれが、一昔前まであたしの耳にもとどいていたけれど、もうなかなかない。文化とはその通り文字にすることだと思うから、言語はその最たるものなんだろうから、もう自分は若者ではなくなってその言葉は通じなくなったのかな。句の「その前」というのは、「ギャル語」に疎くなるときだろうし、その後にはその「神」に従って信仰せざるを得なくなる予感があるから、今が、とある「神」を疑う最後のチャンスかもしれない。疑うことは戦うことの第一歩だろうから、口火を切ることなんだろう。

花言葉「あるわけないでしょ」それにする 嘔吐彗星

 死後生まれ変わるような選択をとれるとするならば、その魂みたいなものが花に生まれ変わろうとして人間たちの花に意味づけた言葉で転生先を決める、といちばん屁理屈をこねて読んだ。花屋で花を買い求めるときに渡す相手へのメッセージとして花言葉を参照したと読むのだけでも十分魅力的なのだけど、この作者は「系統樹」を逆さにして、生き物からこぼれ落ちたような魂を一掃しようとするひとだし、あるわけないことのメッセージを好むなら、こういう頓痴気な読みも笑って許してくれるだください。。

チャーハン食べたい自家受粉したい 奥村鼓太郎

口に出してみると、「ハン」と「粉」の脚韻、「たい」の繰り返しがいい音。チャーハンと自家受粉が並立されているのは、おかずや遺伝子の多様性を拒否したかったり、多様性を得るための高いコストを払うのにも疲れていたりするのかもしれないな。けれども、その望みを叶えた後、体力や気力が回復したら強欲になっていってミニラーメンや餃子も欲しくなるし、花粉をふりまくためにミツバチを呼び寄せたくなったりするのかな。

だいだいどんなアケビでもだめ ササキリ ユウイチ

 一音おきに繰り返されるDの音のリズムと、アケビへの諦めのなんとも力の抜けていく感じが、ひらがなカタカナ表記とも相まって味わい深い。アケビに何を期待しているのかわからないけれど、反った楕円形の淡い紫色の皮が割れて、白い果肉につつまれたくさんの黒い種を抱えた芋虫状の可食部、しかもそこには触角然とした突起もたくさん。そんなグロテスクでマイナーな果実のなかにほんの一握り存在する発話者の理想通りの完璧なアケビが宙に浮いている感じ。

じゃれあったり走馬燈に登場しあったり 松尾優汰

 魂の双子みたいな関係性があったとしたら、こういうのを言うのかもしれない。走馬灯が単なる思い出のオムニバスなら結果がわかっているから退屈ですぐ眠くなるだろうけれど、「あったり」という促音のリズムの良さが投影のスクリーンの奥から現れて、即興を交えて新しく動き出すようにも感じさせ、舞台挨拶からアンコール、なんだったらカーテンコールにも応えてくれるような、最期まで遊んでくれそうな仲の良さでもある一方で、いつまで経っても終われないような予感の不気味さもその表現の反復にはある感じがする。

沈黙の外に置き傘置かれうる 参加者番号8

 傘はひらけば一人分、狭いけど二人分の空間ができて幾度も親しい二人の仲をとりもってきたし、閉じれば杖や剣、ゴルフクラブにもなる人生の立役者だ。だのに、置き傘は傘の二軍で、不届き者に盗まれたり紛失したり結構不遇だ。一軍の傘でも雨のときしか本領発揮できないのに、二軍ならなおのこと。結構なポテンシャルを秘めているのに、困ったときにしか持ち主に相手にされない疎外感すらある持ち物だ。「沈黙の外」に広がっている、荒涼とした喧騒のなか、誰にも触れられない孤高な置き傘であり続けてほしいよ。

ハイビーム根元の方が味が濃い 太代祐一

 この句が一番悔しかった。食べ道楽者を自認するあたしが、一度も味を想像せず観念においても口にしようとしなかった自動車の遠くを照らす光。夜の歩行者認知のために推奨されるけれど、対向車にとってはまぶしくて嫌がられるし、すれ違うときに嫌におもっていた光。もうこれからは、夜の対向車の光を見る目が変わらずにはいられない。

ばあさんがわたしのヘソの緒をすてた 参加者番号10

 へその緒は、誰のものなんだろう。母親とかつて胎児だった自分をつないでいた内臓だった干乾びた肉片が、桐の小箱なんかに入れられているのを、子どもの時分に見せられた経験をしたひとはわりかし多くおられると思うのだけれど、そう考えているうちに、これってこの世へ入場するための半券みたい。小瓶にいれてホルマリン漬けのプルプルだったら半券のイメージに結び付かなかったから不思議。きも。それにしても「ばあさん」はデリカシーも良識もない人だなあ。血縁者であろうとなかろうと他人の持ち物を勝手にさわっちゃダメだろ窃盗と器物破損で刑事訴訟するぞごらとおもういっぽうで、子どものほうだったら所詮半券だしそんなに気にせんでもよくない?親離れしたら?とも思ってしまうし、母親だったら執着せざるを得ない悲しいことがあるだろうなと思うからなんとも言えないな。他人を理解するのはとても難しいから、その大切にしているものは放っておくことで敬意を払うのが適当だと思ってしまうのは薄情だろうか。


夜中しっちゃか夜中めっちゃか夜中っちゃか 参加者番号11

 投句10句中半数にみられる独特なリズム繰り返しの言葉遊びみたいなものは、句の発話者だけに通じるおまじないみたいなものなのかしら。提出句の、夜中の混乱ぐあいに拍車がかかって口もまわらなくなる感じが最初はおどろくのだけど、なんか読み返していくうちに癖になるから不思議。夜中に眠気とか自律神経の高ぶりとかのせいで、しょうもないギャグとかで笑いがとまらなくなっちゃう感じもする。

近年は渋谷が特に塩辛い 参加者番号12

 毎年の東京各地の味わいをテイスティングする謎の発話者の感慨が、かつては若者の街ともいわれた渋谷のあんまり若者が好まなそうな塩辛さ。上戸には嬉しいし、下戸にはご飯のおともになりそう。町の味が変わったのか、この発話者の加齢とともに塩分摂取を気にするようになって濃い味付けが苦手になったのか。

身も蓋もなく生前を受け入れる 参加者番号13

 「身も蓋もない」ということは露骨ということだから、白骨化した骸ということ? そんな自分の生きていた人生を諦めもにおわせて甘受する感じ。墓穴に落ち込んで野ざらし然となった骸を見下ろしているような無常さ。

息継ぎはマカロニ深く吸うと月 城崎ララ
永遠をどうしよう指紋つきそう 同

 うつくしい句だと思った。夜と水中の暗さにマカロニと月の明るさが対比されるだけではなく、子どもの振る舞いのように口先に咥えたマカロニの小さな穴から遠く飛躍して月へとつながる道筋がその息遣いという肉体の生々しさそのものというのにも驚き。「深く吸うと」という力強さは、「永遠」を手中に収めて「指紋」で汚すのを心配しているこの作者の魅力の一つなのだけれど、「マカロニ」で詩情のバランスを取ろうとしている心遣いみたいなものは川柳定型の効能だろうか。息継ぎのバイオリズムと月の満ち欠けの周期の符合することと、「マカロニ」と「月」の脚韻もはまっているし、すばらしい。

マンモス団地で飛び魚を見たよ 参加者番号15

 あたしが実際に飛び魚を見たのが、フェリーに乗って目が覚めた甲板で早朝の海だった、という体験のせいか、この句の景の団地の一棟一棟が大きな船のように思われた。上から見下ろす格好で、胸鰭をひろげた飛び魚が尾びれで船のおこす波を蹴りけり並走しているのだけれど、見た場所が甲板だったからか、この景も団地の屋上から見下ろしているような、なんで団地の屋上にいるんだっけ、という錯覚があったのも楽しいかった。

望郷は夜の七時に二回まで 石原弱

 ゲームは一日一時間というのは聞いたことがあるし、「ふるさとは遠きに」云々って昔の詩人も言っていたけれど、午後7時に二回というのはかなり忙しい。それに午後7時という時間設定も絶妙で詩情をずらしに来ている感じもする。深夜二時とか、正午とかのほうが詩的にかっこいい感じするじゃん。夜の七時は夏なら全然明るいし、冬なら暗いし、みんな家に帰って夕食する時間だから?

ヴァルハラのポストに缶ジュースがいっぱい 二三川練

 「ヴァルハラって『エイリアン コヴェナント』のデイヴィット君がよう聞いとったワーグナーのやつや!」と、関西人のイマジナリーフレンド?が浅い知識で喜んでいたのだけれど、そんなことよりも、もしかしたら大人になってから「缶ジュース」を飲んだことがないかもしれない。子供のころの「ジュース」は「ソフトドリンク」にすり替えられて?しまったし、そもそも「ジュース」について知らないなと思って、辞書には「特に野菜や果物のしぼり汁」ときた。牛乳配達みたいに生協的な宅配で、北欧にはない南の酸味ある果実類オレンジやトマトの缶ジュースをヴォータンが注文しているのだと思うのだけど(戦う神たちの疲労回復的な福利厚生だろうし、リンゴジュースだったら巨人族たちとの争いもいくらかましに和解になったのかもしれない)、「いっぱい」というのはこの発話者(目撃者)の主観というか驚きというのがとても重要だ。にんげんなら数日分の牛乳や新聞が玄関先に溜まっていると、家主の孤独死や浴室やトイレに閉じ込められたなど不穏な事案を真っ先に疑うのだろうけど、この宮殿に連日供給される南の供物が溜まり続けるのは「ヴァルハラ城への神々の入城」と同じく破滅の予感という不穏な点では同じ。

名前には意味がある踊り場がある 西脇祥貴

 「踊り場」は階段の折れ曲がるあの小スペース、と読んだ。正常な階段は上下関係があるから作られるし、横の制限があれば折れ曲がったりもする。トマソン階段でもなにかしらの事情の結果にできあがった出来事みたいな感じすらある。にんげんが何かに名前をつけることは、それをこの世界の中に関係づけることだろうから、この句の確認じみた反復は発話者の世界に対するゆらぎみたいなものが頭をもたげはじめたということだろうか。ちなみに、日本にできた最初の踊り場は鹿鳴館だったと何かで読んだ覚えがあって、あの階段の屈折する小スペースにさしかかったときにドレスが揺らいで踊っているように見えるからそう名付けられた、とのこと。ほんとかなあ?

自分だけの森を縫い付けるみたいに 小野寺里穂

 心に森をもっているひとというのはわりかしいるけれど、縫い付けるようとするひとははじめて。足を踏み入れたがる他人をどのように見極め許すか拒むかは、その森の主の処世そのものになるのだろうけれど、森そのものを「縫い付け」るように何をしようとするのか言いさして、他人にはわからない。ただ、針で刺し、穴を作って、糸を通していくことは痛みを生じることだろうし、その結果は美しさもほつれの予感も漂わせる。独自の気高さとためらいが同居していて、こころがきゅっとなる。

ひまわりは深い穴から出る背骨 多賀盛剛

 明るさから暗転する景をその名詞の形やイメージに沿わせて動かして、なんか妙な納得をあたえてくることができるというのがすげえ。植物と死体のにおいの組み合わせはとても魅力的で、最初「ひまわり」の黄色い花を考えたのだけど、それが実はまだ咲いていなくて、底が見えないようなところからちょっとずつ背骨が伸びてきて?、最期は?頭蓋骨が咲いたり歯の種がとれるのかな。投句10句にたびたび現れる体のあちこちとの組わせる名詞の選択がとてもよくて、まだ今のあたしには味わいきれないのがとてもいい。

どうしても幻肢が来世にきてしまう 朝凪布衣

 今世に失った手足の感覚が、次の生に持ち越され続ける感じで、わけがわからなくなる。転生みたいなものがあるとして、それだけでも理不尽このうえなくて嫌なのだけど、肉や内臓のハンデをおわされたりするだけじゃなくて、勝手に押し付けられた手足を、また勝手に奪われて、さらに失ってもあるものと感じざるを得ないのってどんな地獄ですか......それらの痛みが幾重にも累積されていくのを想像して読もうとすると身体的にもめちゃつらい。

じゃがいもに戦争を考えてみる 堀部未知

 お芋はいい。主食にもおかずにも、おやつにもなるし、酒になれるし、ハンコにもなる。埋めておいたら、別のお芋がたくさんできるけど、埋まったままくさるとデンプンで畑の表面が白くなる、らしい。里芋、長芋、サツマイモ、どれも愛おしい。ただ、主食になるといっても、お米や小麦は手ごわいな。と、ここまで書いておきながらこの読みではこの句の魅力から離れていく感じがするのはなんでだろう。大切なのは、じゃがいも「に」と、末尾「戦争」を考えて「みる」という表現によって、大きな暴力や残忍さにはほんの偶然晒されていないという無自覚さや、それらの無知を装うほんの些細な加虐さをお芋で矮小化したり、回収したりしている、とは言うことができるだろうか。

さけてゆくチーズその他のおまじない 参加者番号23

 花占いで花びらを取っていくみたいに、さけるチーズを裂いていくおまじないと読んだ。ただ、この句の眼目はたぶん「ゆく」と「その他の」であって、裂いていくのではなく、勝手に、風化していくようにチーズが裂けて「ゆく」様子は人為を斥けているようだし、「その他」いくつかある願掛けや吉凶の予感や呪詛みたいな、情念を注ぐことができる事物がチーズだけではなく冷蔵庫の中や食卓にのっているということだし、あたしたちそれぞれはどんな事物に対しても他人が想像を寄せ付けないおどろおどろしい意味付けが容易にできるということでもあるのかな。

矢面になって 蕨も生えてきて 暮田真名

確かに批判や非難にさらされたら、灰汁が強いワラビも生えてくるでしょうなあ。読んだときの景は、なんか昔の戦場の山あいのひらけたところに矢が刺さっていて、それがワラビに変わっていく感じ。この「なって」「きて」というように変化が続く口語の感じは、この発話者が会話を続けたがっていたり、誰かやさしい、もしくは自分を傷つけないにんげん、もっと言ってしまえば背中を預けられるようなにんげんを求めているようにも思えた。

斤量を四人家族に分けてあげる 同

 「斤量」というのは秤ではかった重さのことで、古めかしい尺度による重さと言い換えて読んだときに思えたのは、落語とかによく出てくる江戸長屋の連中なのだけど、今日日の「四人家族」を考えると色んな組み合わせがあるだろうな。子子母父、母母子犬、子祖母彼氏文鳥、父子ぬいぐるみ猫、母(別居)父(別居)子犬。いろいろの形態で、同じ建物で寝起きをしていたり、離れていたり。少なくなく多いわけでもない血縁や利害、腐れ縁など紐帯には、暮らすということそのものや信頼関係の重さというのがある。重さというのは、目で見えるわけでもなく味がするわけでもなく、手足で支えたり吊ったり力添えしなければ感じることができない。しかもそれはひとそれぞれ軽かったり重たかったり感じ方が違う。その家族の重さを与えて(くる/くれる)この句の中の発話者が、様々な形態の家族に「斤量」という古い尺度にこだわって接するというのも不思議な魅力がある。

空位なら耳あてのために耳があるんだ 同

 正常の認識が、耳のために耳あてがある、なのだろうけど、玉座が空いて崇高な存在が不在であるなら、「耳あてのために耳がある」というように倒錯するとのこと。ある種のフェティッシュ、おしゃれな言い方を改めれば呪物が生じるということなのだろうけれども、じゃあちゃんと王が存在すればその倒錯が解消されるのかと言えば、そうではないかもしれないな。最初に王たる者が座って玉座がうまれるのだろうけど、それを存続させるのは「玉座のために王がある」という制度に話が移り変わるということでもあるのかな。

 なんか自分の鑑賞にもいくつかの型があるし、今じぶんで読めると思っているものよりもわからないもののほうが豊饒な鉱脈が隠れているように見える。川柳にかぎらず短詩の初歩であり妙って比喩や象徴の長短だし、それって世界へのまなざしと感得だよなあ。

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