「月報こんとん」2月号の感想

二月末から今日にかけてなんやかんやあって、連作全体の感想が書けず各句の感想です。

松尾優汰「セカンド・アルバム」の感想

モータウン・ビートではじまった倫理

 倫理に曲をつけるなら明るい曲調であってほしいし、そのイントロはとても大切だろうし、それに耳を傾けようとするひとにたいしては、このイントロどっかで聞いたことあるやつだって思ってほしいとおもう、大切なことはそのあとにずっと続くから。学問や芸術の目的は真理の探究だとおもうのだけれど、にんげんとしての規範を考えて行動するのが倫理だし、生身のわたしたちが持ち合わせなければならない最も大切なことだと、みんな思い出しはじめたと、信じたいから。
 この句の「倫理」が高校の授業としての倫理であっても差し支えないともおもうのは、受験科目としても学問としても、倫理がともにマイナーというか重要な脇役であるということと地下茎でつながっているからだ。それは倫理学がその特質、規範を考えて行動するということが、この世のさまざまな厳しさや残酷さと対峙して、実行する意思を保つ難しいということでもあるし、このことは倫理が人文知の前提や、にんげん社会の基礎そのものともいえるのであるがゆえに、むしろマイナーとは対極で、どこにでも浸透しているからその存在に普段は気が付かない、気が付かないときこそ倫理が達成されている、ともいえると、少なくともわたしは思っていたからだ。応用倫理学や介護倫理や生命倫理もあるぞ、文学や哲学や社会学やフェミニズムにもかかわっているから、マイナーではないぞ、という意見が、前述を読み飛ばしている方からあるかもしれないのでくどいようですが繰り返すと、様々な分野にかかわることそのものが、それが基礎であって縁の下の力持ちで倫理そのものが必要不可欠な脇役であることの証左だということです。
 2月のこんとんの一句目がこの句であることにとても驚いている。(驚く必要はなくて、この句を出汁につかって自分の主張をしているだけといわれたら、反論する気もないのでそうですとお詫びする)。期せずして、ロシアのウクライナへの侵略が始まって二週間が経過して、毎日たくさんのひとが暴力にさらされていることに、原発やロシアの天然資源をめぐる西側諸外国とわたしたちのこの国あれこれに、にんげんの倫理観や善なるもの脆弱さに、打ちのめされて。理不尽に殺されたり傷を負わされたり生活や人生を奪われたりする人たちの苦しみを感じて、この国も何かのきっかけで戦場になりかねないしまた原発が破壊されて放射性物質で土地や海やわたしたちが汚染されるかもしれないと毎日考えざるを得ないし、銃を持って川を泳いだり玄関先に傷だらけの子どもたちが助けをもとめてきたり、家屋の瓦礫の街を走ったりする悪夢を見て夜中に目が覚めることがよくある。
 倫理について語らざるを得ないときというのはそれに対峙するこの世の凄惨さや邪悪さの暗闇の深さゆえに、イントロも明るすぎるくらいでちょうどいいのかもしれないし、この句の〈私〉にとっては脳内で流れるモータウンビートがしっくりくるということだと思う。モータウン・ビートの代表はシュープリームスの「You Can't Hurry Love(恋はあせらず)」 というのが通説みたいですが、きいたことあるな、と思った。たぶん人それぞれに脳内で流れている音楽がちがっているし、筆者にはモータウンビートは明るすぎて、いまはたまの「さよなら人類」が以前よりしみじみ聴けるようになっちゃって、脳内でも石川浩司さんに楽しくいろんなものをたたいてもらったり笛をふいてもらったりしてたのしんでる。

はせをにわびて座席をたおす

「はせを」を松尾芭蕉の芭蕉と読んだ。ばしょう、ばせう、はせを。よくわかんない言葉がでてくるとうれしくなる。作者も松尾さんだし、ご自身のSNS上の氏名の表記も「まつを」と「を」をつかっているし、自分をパロディーっぽく扱っていてるし、少なくとも意図してる。座席をたおすってことは、バスや新幹線に乗って旅行してるってことだし、後ろに芭蕉も座ってたらたのしい。わたしはこの国の北側にすんでいるので、芭蕉は奥の細道しかないぼんやり思い込んでいたけど、ほかにもいろいろ紀行があるんやね。

セカンド・アルバムを生きなおす子ども

子どもなのに、二つ目のアルバムですでに生きなおさせられているようで、最初のアルバム以降どんな目にあったのかわからいけれどなにか暴力や生死にかかわる何かにその心身をさらされたのだろうし、その経験から早熟をしいられているようでかわいそうにも思うけれど、そこで死なされることも殺されることもなく耐えて生きのびてよかったねありがとうだし、さぞつかれただろうに。

二三川練「ボーダーライン」の感想

色とりどりにニトリの神輿

ニトリにカラーバリエーション豊富なお神輿があったら、買うかもしれない。それも大家族用ではなく、1-2人用のこじんまりした奴だったらとおもうと、気が急いてくる。神への祈りの所作として、手を合わせたり叩いたり膝をついたり歌をうたったり、いろいろあるけれど、家の中で神輿をかつぐのも新しい祈り方じゃないですか、特に怒りに身を震わせているときなんて物にあたるよりずっとましだし、喧嘩したなら2人でわっしょいわっしょい神輿を担げたら最高じゃないですか。わっしょいわっしょい、ニトリのことだから折りたためて収納できるけど、肩に食い込む担ぎ棒の重さを感じて息を切らせたら、わだかまりも消えて仲直りできるかもしれないじゃないですか。簡単には壊れなそうだし、壊れたら十分に使った証拠ということで、下取りにだしてあたらしい神輿を買うのもいいかもしれない。特定の宗教を信仰していなくても、祈ることはできるはずだし、でかい道具をつかって体をうごかすのも祈りになることをニトリの神輿は担保してくれるだろうから、アフォーダンスともいえるし、神秘的な心身の体験が信仰の所作を導くのか、心身の律動や所作が神秘性を宿すのか、という発生も気になるところだけど両方っぽいきがするな。

終戦を自転車よりも遅刻する

偶然だけど、はやく終戦してほしい。

定型に効く保湿クリーム

この保湿クリームが、手荒れやかさつきに効くハンドクリーム的なものなら、定型は言葉そのもの、もしくはその言葉を使う〈私〉は健康異常疾病未満の状況ということになるだろうし、保湿してくれるなら定型は乾いた状態だ。(余談ですが、資生堂の尿素10%クリームっていうハンドクリームを今冬は愛用してて、香りやらおしゃれ要素ゼロなのだけれど、べたつかないし、わたしの手には効いたのでもしよければ。コスパ良きです。)


暮田真名「不気味の谷に」の感想

体温でアバンチュールがぱさつくの

ぱさつくのは、水分がぬけているということだし、それを指先や舌の触覚でかんじているということ。そして、ぱさつく、という評価は本来備わっているのが良しとされる水分がうしなわれている、もしくは、保湿する性質があるのにもかかわらず保湿できていない、という悪い意味付けの言葉だ、と仰々しく言っても傷んだ髪や安い鶏肉にばかり使う言葉だけれど。アバンチュールって辞書で引くと「(冒険の意味)冒険味をおびた恋愛。恋の火遊び」なんて辞書らしからぬ詩的な定義づけがされている、という印象をわたしは持つのだけれど、そのアバンチュールに危険性を楽しむ火の表象が附されているにもかかわらず、体温のヌルさで、その水分が失われていくという (しょうもない余談ですが、世の飼い猫キャッツたちを狂喜させるあの半液半固体のエサもチュールだね。犬用もあるらしい) 。恋愛上の火なるものにもいくばくかの水分が(備わっている/備わっていると期待している)のに、体温が原因でそれが損なわれていると〈私〉は指先や舌の触感で感じる。そして、その後の火なるものが本来の性質通りに保湿された状態になっているかは、次の別のアバンチュール次第でしかない。髪の毛のパサつきは食生活や身体の健康状態によって改善されるという意見はあるがそのパサついている髪の毛は生え変わるものだし、安い鶏肉も調理次第で肉汁したたるようになるらしいが調理済みで口に入ってぱさついたと評価された肉はそのまま飲み込むか吐き出されるかのどちらかだ。そういう髪と肉が、ぱさつくという生身のにんげんの触感による評価でアバンチュールと結びつくなら、いずれも一回性みたいなものがつきまとう。これを支えるのが、火よりも水、それも目に見える液体や固体でもないし、高温という点で火に近づく気体でもなくて、目には見えない何かに潜在する水分や湿りということことになるのかしら。この一回性というのが厄介で、次は別のアバンチュールなのだから保湿された火なるものを得られるかもしれない、とどうしても期待してしまうから。こう考えてくると、にんげんに無いものねだりの誘いをかけることがアバンチュールの危険性という部分ってことになる。これまで、にんげんは生身の肉体をつかってばかりの(恋愛/「恋愛」と呼ばれていること)をしていたからこうなるのかな。

もこもこのこれが人海戦術か

もこもこが好きだ。もこもこって音もいいし、ひらがなの表記もやわらかい印象じゃし、なによりさわった感じが最高だ。湿りや水分が大敵なのも、ここまで読んでくれたあなたはわかってくれるはず。それに、もこもこのものはだいたい獣やぬいぐるみだし、にんげんの言っていることは、わからないか、ほんのちょっとだけわかっているかもしれないくらいでかまわないし、逆に語りかけてこないでほしいと私などは思ってしまう。できればでっかいもこもこの獣やぬいぐるみにくるまれて眠りたいし、そうなったらもう目覚めなくていいです。なのに、なのに、もこもこのなにがこれなのかは判然としないけど、その美質とは対立的な、人海戦術っていうがちがちした音の多数の兵員を投入する様を見出さざるを得ないおどろき。術中。

ピグレット、不気味の谷に帰らないで

嫌だったのか、ピグレット。そうだよね、なりたい自分をきめるのは、自分でなくてはならないから、つらかっただろうに。自分を美しいと思ってくれるのは、自分ひとりだけで十分なのに、そうさせてくれない者たちがその谷を見下ろす山や平地にいるから谷底の川の流れに乗って、生まれた星に帰れるといいね。


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