ササキリ ユウイチさん主宰の「川柳句会ビー面」に参加しての感想と、自分の鑑賞についての検討
先日の第1回「川柳句会こんとん」のあと、ササキリユウイチさんのお声かけから「川柳句会ビー面」が行われ、それに参加したのだけれど、おしゃれな感じの「夏雲システム」というオンライン句会のプラットホーム?的なあれで、ハイテクで便利な機能がたくさんでおどろくなどした。「第1回川柳句会こんとん」が大賞者を決めるコンクールっぽい感じの印象だったけれど、今回は参加者がお互いに好きな川柳を選びあって人気投票?するというやつで、なんとなくむかしながらの句会っぽい?感じだった。「こんとん」のときと同じように作句の方針は今回も立てたのだけれど、問題は作った後だった。
1_1.自分にはまだ評価基準がないので甲乙つけるのできないし感想書けない問題
というのも、自分で句を作るだけではなく他の人の作品に甲乙つけて感想を書くというのだから。困った。まだ自分には川柳の評価基準がなく、特選(2点)、並選(1点)を選択する明確な根拠がない。しかも、優劣を前提とした感想ってその評価基準がないために書くのがとてもつらいということに気が付いた。これはあくまでもあたし個人の問題として、俎上に載せたからには評価とその道理は他人に説明できなきゃいけないし、共有しないと気が済まない。(これはあくまで個人的なこだわりに過ぎなくて、他の参加者の方に評価基準を要求しているわけではないです。勿論)
おもしろさはもちろんのこと、「自分はこのようには書けない/書かない」と感じた句を積極的にとりました。(暮田真名「第1回「川柳句会こんとん」大賞発表など」https://note.com/kuredakinenbi/n/n1e66c59963fd)
前回の第1回「川柳句会こんとん」の大賞発表に際し、暮田さんは上記のように「こんとん」への期待と自身の文学的信念について書いてくれていて、今回の参考にしようと改めて読み直してみて、今回の「川柳句会ビー面」と前回の「こんとん」の目的が違うのだから参考にはあんまり適さないという単純なことに気が付いて、また発表当初は軽く読み飛ばしていた上記のような文章を書くには自身の川柳に対する深い理解が必要不可欠だよなという当たり前のことにも気が付いて、(じぶん文章読めとらんやんけ)と関西人のイマジナリーフレンド?にあれこれ言われる。
1_2.とりあえず今回は名詞の組み合わせの印象を優先
そんなことで、感想記入の期限までに評価基準の道理がいまいち見いだせなかったので、「第1回川柳句会こんとん」の全句の感想を書いたときに感じたことの、
(1) 調べたら自分の知らない意味や性質をもつ名詞や、自分にとっての意味を更新した名詞が流れ込んできたときの気持ちよさ
と
(2) そういった未知だった名詞と既知の名詞の二つないし三つが組み合わされて溶け合ったり衝突したり反発したりしたときの印象
の2点を、今回の評価、というか読後感の支えにすることに。これは評価基準の大枠ではなくて、その中に複数あるべき要素にすぎないのだけれど、今回は仕方ない。(ただ、今思い返して(1)(2)を規定し直しただけで、感想を書いていたときは「この名詞と名詞!好き!」というだけにまかせた狂人の素踊りみたいな感想で、これはこれで読み返すとおもしろいけど、作者の方に失礼だったかもしれないな。)
ただ、確かに名詞の組み合わせのパワーはすごいし隠喩や象徴の引き金になるのは確かなのだけれど、これがそのまま韻文の魅力というわけではないし、川柳定型独自の効能というわけでもないな。こんごの課題。
1_3.当面のじぶんにとっての句会の目的は「未知の着想を得ること」にした
それに、こういう句会の意義の一つに「上達」がある?っぽいからには、助言ももらえるけど求められる、ということなのかなあ。なおのこと困った。攻撃的なひとはたぶんいなそうだし、良識のありそうなひとたちだから、嫌な思いはしなそう。と、自分の句会に参加する目的を、句会の途中折り返し?くらいで考えなおしておったら
<にんげんだけじゃなくてこれから獅子舞とUFOの言葉も身に着けていけたらいいな。>(https://note.com/public_pool_1237/n/ne7796e69e546)
って自分ですでに回答しとるじゃん。
これを未知の着想と言い換えたら、そりゃあ句会は手っ取り早そう。ことばはいつも外からやってくるものだから、迎え入れてまた送り出してあげるのはこの世へのささやかなお礼参りとしても筋が通っているな。相手にとっても自分は未知の着想の産地のはずなので、なにかしら差し出すことは容易だぞ(それはそうと、ちゃくそうってなんか葉物やさいみたいだな。ゆでたらおいしそう。ヤム)。そう思うと、少し気が軽くなって勇気もわいてきたので特選の感想は「1_2」の方針として、並選ではその句に対してそこからまた別の川柳がうまれるような願いをこめた戯言を書くことにした。(ところで「並選」って表現、選んでやるけど目立たない様子をあえて並って表現してあげますよってことか?あ?これが柄井川柳の煽りのスタイルなの?)。
そんなことで、とりあえず最低限の感想を書いてちゃんと「川柳句会ビー面」の参加となった。参加者の投句と感想の一部は、主宰のササキリユウイチさんが<「川柳句会ビー面」の月報>として公開してくれた。継続の予定で、毎月のたのしみができてうれしい。
2_1.雑記メモ:定型短詩での名詞の組み合わせについて(川柳は首尾を物語ろうとするよりも、首だけ尾だけに切り分けたほうがいい?)
「1_2」に関して、前回の「第1回川柳句会こんとん」での感想で、いくつかある鑑賞の型のひとつとして強く感じたのが、この名詞とそれにまつわる印象の読後感だと思う。「名詞のイメージでおなかいっぱい」というやつ。
ヴァルハラのポストに缶ジュースがいっぱい 二三川練
がこの鑑賞の型では前回の「第1回川柳句会こんとん」参加者中での白眉だったと思う。「ヴァルハラ」と「缶ジュース」の意味の学習と更新、その衝突がとても心地よかった。作る側としては、こういった語の選択って日頃の学習と知識量、視野の広さを前提としながら、離れた分野のものを結び付けようとする膂力と奇想が物を言うやつ。
これはまだわからんのだけれど、これまで多くの詩で使われてきたかっこいい語(月とか雨とか夜とか)と、あんまり使われなさそうな語(ハイビームとかマカロニとか斤量とか)を組み合わせようとするのは、現代の定型短詩の三つ、俳句、短歌、川柳、のなかでは川柳がいちばんその傾向が強いんじゃろうか。俳句は17音しかないのに季語っていう危険物が入っているし、短歌は31音の中だけですら首尾を物語ろうとするし(これは独断の私見なので通説は知らない)。どちらかと言えば川柳は俳句よりも短歌との親和性があるみたいで、現にツイッターでフォローし合うようになった幾人かは川柳だけではなく短歌もやっている人がすくなくない(これは単なる印象で、短歌と俳句両方やっている方は当然おられる)。
音数のほうでも575の17音だけじゃなくて77の14音の二つが川柳定型とのことだし。もしかしたら、現代川柳は首尾を物語ることはあんまりもとめられていなくて、音数の少ない制約をその特色として首だけ尾だけ、という印象を受けているんだろうか。首だけとか、尻尾だけとか、だから前後の文脈不明感がつよいし、謎が多いと感じやすいし、そういう可笑しさもあるし、それらに拍車をかけようとして別の面白味をいろいろ入れたくなるのかな。これは思いつきで、まだわからない。首尾よい川柳もあるからなあ。
2_2.雑記メモ:感想を書くのはやっぱり緊張するけど書かれていないこと読みたい問題
情評価基準をもって甲乙をつけたうえで感想を書くのと、単に感想を書くのでは意味が変わってくる。たぶん、単なる感想ならお得意の屁理屈で全句に対して書くことができるだろうけれど、改めて考えると「第1回川柳句会こんとん」の自分以外の投稿者分22句と軸吟3句の計25句の感想を150~500字程で書いてはみたものの、このとき一人10句の中から感想を書きやすい1句を選んでいたきらいもあった。川柳を読めてる感、を味わいたいということが動機のひとつなのだから素直な反応なのだが、感想を書くことが目的になっていて、それは良し悪しだ。なんとか理解できていると感じるものを好きになりやすいのはあたしの傲慢な悪癖だし、感想を書きやすそうな句でも熟慮してやっと気が付く事柄が多くあるしそれは読書の快楽でもあるのだろうけれども、感想を書くことで呆れた顔が見られる(見られない)ことをモチベーションにしていたのは意地きたない感じもするし、かまってちゃんみたいでいやだなあ。めちゃくちゃ突飛な誤読と曲解だったら笑い話になるけど、中途半端な無理解は怒りを買いそう。かと言って、書かれていることだけを読んでもつまらんし、書かれていないことを読んだ方が豊饒で蠱惑的で好きだ。詩を読むことはものを考えることだから、知性と感性を研いでいって累々の理と情をことごとく焼尽させて熱とともに雲散する慈愛をいっときでも抱きとめて真善美のひかりに照らされたきらきらひかる雨にうたれるような読解がしてえ~
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