【死】人は必ず『独りで』死ぬのか
『急に暗いテーマ持ってきやがって』って人がいたら、ごめんね。
ただ、僕は『死』自体が暗いテーマとも、ネガティブな話だとも思っていなくて、それ以上に僕たちが考えるべきテーマだと思うんだ。
実は、人間は『死』についてほぼ何も分かっていない。
どうなったら『死』なのかも分かっていないんだ。
『そんなことないやろ』と思った人も少なくないかもしれない。けど、僕たちが現在採用している『死』の定義ってのは医学的な『死』の定義に過ぎないんだ。
その一つのサインとして、瞳孔が光に反応しないってのがあるんだよね。
だけど、本当にそれが『死』なのかって言われると、証明することはできないし、文化や宗教によってはそれ自体を『死』とは考えていなかったりするんだよね。
例えば、魂の存在を信じる二元論者は、体が死んだ後も魂は生き続ける。
その限りにおいて自分は死を生き延びることができると本気で信じている人もいるんだ。
僕は、魂の存在は信じていない物理主義だから、現代医学的に採用されている『死』の基準に対してはそれなりの納得感を持っているんだけどね。
まぁ、今回は『死』の定義について議論したいわけじゃなくて、『死』の真理について少しでも近づくために考えるべき主張、つまり『死ぬ時はいつも、誰だって独り』について考えてみたいと思うんだ。
この主張だけを聞いてみんなはどう思うかな?
『確かに』って思うか、『いや、そんなことないでしょ』って思うか。
『確かに』と思った人と『そんなことない』と思った人では多分、描いているコンテクストが異なると思うんだよね。
例えば、ソクラテスは死を迎える時、弟子たちに囲まれながらドクニンジンを飲んで死んだ。
つまり、ソクラテスは独りじゃなかった。
他にも、息を引き取る瞬間に、家族や友人に囲まれながら息を引き取った人はたくさんいるよね。
そんな場面を思い浮かべて、それを『一人で死んでない』と言える人は、『そんなことない』と思ったはずだ。
だけど、『確かに』と思った人は、そんな状況でもしにゆくのは自分だけであり、その瞬間に周りに何人居ようが『死』という経験は『独り』だと思ったかもしれない。
確かにそうかもしれないよね。
だって、自分以外に誰も身代わりにはなってくれないんだよ。
自分の代わりに誰かが死んだり、逆に大切な人の代わりに自分がその人の死を経験することはできないんだよ。
哲学者のシェリー・ケーガンがこんなイグザンプルを提唱していた。
例えば、あなたの愛するパートナーが何かしらの罪によって死刑になったとしよう。
あなたは愛する人に死んでほしくないという思いで、代わりに死刑を受けると申し出るんだ。
そして、その通りあなたは死刑に処され、あなたの愛する人は死なずに済んだ。
これは、あなたがあなたの愛する人の死を代わりに経験したことになるのか。
また、あなたが道を歩いていて、ふと顔を上げると子供がトラックに轢かれそうになっている。
あなたは咄嗟に走り出し、子供を歩道へと押し飛ばし、あなたがトラックに轢かれ即死したとしよう。
この場合、あなたは子供の死を代わりに経験したのか。
両方ともそういうことじゃないよね。
ただ、あなたがあなたの愛する人や見知らぬ子供の代わりに『あなたの死』を経験しただけだよね。
つまり、あなたが誰かの死を代わりに経験することはできない。
それは、誰がどれだけ望んでもだ。病気で死にゆく子供を看取りながら『この子の代わりに私が死ねたら』と泣き崩れる母親がどれだけいるか。
そういった意味においては、『死』は必ず独りなのかもしれない。
もしくは、『死ぬときはいつも独り』ってのは、孤独感という感情の話をしてるのかもしれないよね。
どれだけ大好きな人に囲まれて息を引き取っても、一緒に息を引き取ってくれるわけではないし、自分だけがその場所から離れていくような寂しさと孤独感を感じるのかもしれない。
僕はそういう意味での『独り』の方がしっくり来るんだ。
僕がしにゆくタイミングを想像してみると、どんな状況を想像しても孤独な気がする。
独りだと感じる気がする。みんなもそうなんじゃないかな。
つまり、『死ぬときは必ず独り』ってのは正しいのかもしれない。
しかし、重要なのは、それが『死』の真理を知るのに重要な情報なのかどうかだ。
『死』の真理に迫る主張であるためには、それが『死』特有のものでなければならない、というのがシェリー・ケーガンの主張だ。
例えば、『死』以外に、誰かが自分の身代わりになれないものがあってはいけないし、大好きな人に囲まれているにも関わらず『独り』な感じを感じるものがあってはいけないということね。
けど、実際はそうではないよね。
だって、例えば、食事だってそうじゃないか。
あなたがお腹が空いたらあなたが食事をしないとあなたの空腹は満たされない。
あなたの家族や友達があなたの代わりに『あなたの』食事を済ませておいてはくれない。
散髪だって同じだよね。
あなたの髪が伸びてきて切りたいんだけど、時間がないから友達に言ってもらうとか、そんなことできないよね。
それはその友達の散髪でしかなく、『あなたの』散髪がなされたわけではない。
つまり、あなたの身代わりになれないことなんていくらでもあって、『死』に特別なことではないんだ。
また、大好きな人に囲まれていても『独り』な感じがすることはあるだろう。
大事な仲間と一緒にいても不良少年たちは孤独だし、寂しいんだ。
怒りや暴力、飲酒や喫煙に訴えても、その孤独感は消え失せてはくれない。
そう思うとどれもこれも『死』に特別なことではないように見える。
ということは、たとえ『死ぬときは必ず独り』というのが正しかったとしても、それは『死』の真理に迫ることにおいては重要なことではないのかもしれない。
人は必ず『独りで』死ぬのか。
最後まで読んでいただきありがとうございました。