【死】生きる価値とは?

生きる価値があるとかないとか、自分の人生には価値があるのかどうかって話は長年人気のテーマだ。

実際、今みんなの人生が生きる価値のあるものなのかどうか、またそれをどのようにして測り、証明するのかは非常に難しい問題だ。

僕の人生がどうなのかも分からない。

けど、今生きているってことは価値がないわけでもないってことなのかな。

どうなったら自分の人生には価値があるって言えるのかな?

何不自由なく生きれていたら生きる価値があるのかな?だけど、何不自由ないってどういう状態なんだろう。

『何不自由ない』の基準はどこなんだろうか。

もしくは、なりたい自分や夢などがあれば生きる価値があるのだろうか。

まだ、成し得ていないものや手に入れていないものがあるからこそ、それを手に入れるためには生きているしかないって考えれば生きる価値がある理由になるのかもしれない。

じゃあ、逆に夢や理想がなければ生きる価値がないってことなんだろうか。

そんなこともないはずだ。実際、夢も理想もない人間はいくらでもいると思うんだ。

それでも、『死にたい』と言うわけでもなく、自身の人生を謳歌しているように見える人もいる。

だとすると、それは人生の価値を測るための必要条件でも十分条件でもないみたいだ。

では、どうやって生きる価値があるのかどうかを測れば良いのかって問題なんだよね。

例えば、世間一般的に良いものとされている快感と、悪いものとされている痛みを天秤にかけてみて、どちらの方が大きいかでその人生に生きる価値があるのかどうかって考え方があるんだ。

『快楽主義』って言うんだけど、これは非常にシンプルな考え方だ。

この複雑な世界や人の人生をそのまま複雑に考える必要はない。

例えば、ある人が死ぬ直前に自分の人生を振り返ってみて、自身が経験した(厳密にはそれを記憶している)すべての快感とすべての痛みを足し合わせて、その二つの差を求めるんだ。

その結果、快感の方が大きければ生きる価値があると言うことになり、逆に痛みの方が大きくなれば切る価値がなかったという測り方だ。

この測り方はとてもわかりやすいし、受け入れやすいものでもあるよね。

なんでかって言うと、例えば、うつ病なんかで自殺を選ぶ人なんかは、自分の人生から快感を得ることができなくなっているケースが多い。

そして、それ以上に痛みや苦しみが大きいから、それから逃れるために死を選ぶことが多いんだよね。

これは快楽主義の考え方に則れば簡単に説明がつくんだ。

快楽主義では、快感をプラスとして痛みをマイナスとして、まるで数学のように足し算や引き算をするんだ。

だから、痛みが多すぎると合計は常にマイナスになってしまう。

その一方で、死はゼロにしてくれる。ゼロにはマイナスもプラスもない。そして数学的に考えるならば、マイナスよりもゼロの方が良いと言うのは理に適っているだろう。

だから、その計算の仕方で人生に生きる価値があるかどうかを測ることは非常に簡単なんだ。

もちろん、他にも生きる意味や価値になりうるものはたくさんあるだろう。

例えば、仕事なんかはどうだ。

それが生きる価値や意味になっている人もいるだろうが、どうしてそれが快感に繋がるのか。

それはお金をもらえるからだよね。

お金をもらえると嬉しいわけだし、そのためにみんな毎日一生懸命働くんだ。

じゃあ、なんでお金をもらうと嬉しいんだ。

食べるものが手に入るからか?大切な人にプレゼントを買ってあげられるからか?

それは分からない。ただ、少なくとも仕事というのは、その結果があって初めて快感に繋がるわけで、仕事自体はどちらかというと痛みであることが多いと思うんだよね。

さらに深ぼっていくと、どうして食べるものを手に入れられたり、大切な人にプレゼントを買ってあげられることが快感に変わるんだろうか。

それは、例えば、食べること自体が快感である人もいるよね。

また、大切な人にプレゼントをあげることで相手が喜んでくれるから、それが自分の快感にもなるって人もいるはずだ。

そうやって、僕たちの行動のほぼ全ては快感か痛みをもたらすものであり、その方法は大きく2種類あるように思うんだ。

一つは、その行動自体が快感や痛みになるもの、そして二つ目はその行動をした結果が快感や痛みとなり、その行為自体にはなんの価値もない行為という二つがあるように思うんだ。

つまり、直接的なものか間接的なものかってことだね。

僕たちは、どこまで先の話をしているかは知らないが、どこかで自分にとってのメリットや快感を求めるために生きることがある。

それこそ、アブラハム・マズローは5段階欲求の一番上、『自己実現欲求』の上に『自己超越』という新たな概念を想定していたけど、それは自分と周りの環境や人々がつながり合っていて、まるで他人を自分のことのように労わることができる領域なのね。

つまり、自分にとっては利益がないようなことを他人のためにしてあげたり、自分が苦しくなることを承知で他人に奉仕してあげることができる人は自己超越のステージにいる人だと、マズローは言ったわけ。

だけど、僕はそれすらも自分自身の利益のためであると思っていて、自分自身の快感が根底にはあるように思えて仕方ない。

その行動をした自分に対しての誇らしさや、相手の喜ぶ顔を見た時の喜びというのは、紛れもなく自分にとってのメリットだろ?

喜ぶ顔が見れるだけでいいというのは、一見謙虚な姿勢には見えるが、実はそんなことはないし、かなり要求がましいと思うのは僕だけだろうか。

つまり、他人とのつながりや、美味しいものを食べた時の幸せ、さらには一見他の誰かのためにしている行動に対しての自分自身の感情まで含めて、我々はどこか自身の快感を求めて生きているように思うんだ。

その意味では快楽主義もあながち間違いとは言えないのかもしれない。

ただ、快楽主義はかなり物事を単純化して理論を構成しているから、実際人生はもっと複雑なものであるとして考えていく必要があるだろうと思うけどね。

みんなの人生には生きる価値はありますか?またそれは、どうして?

生きる価値とは?


最後まで読んでいただきありがとうございました。

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