【記憶】記憶は案外当てにならない

生物学者の福岡伸一さんが『動的平衡』について話しているYouTubeを見た時、『自分を自分たらしめているものってなんなんだろう』って本気で考えるようになったんだよね。

『動的平衡』の説明は割愛するけど、僕たちは当たり前のように昨日も今日も明日も自分は自分だと思ってるよね?

それってどうしてそう言えるのかな?

同じ体を持っているから?同じくらいの身長、体重、肌の色、目の形などを持っていれば、曽於の限りにおいてはずっと同じ自分ってことなのかな?

けど、福岡さん曰く、我々の体を構成している物質は日々変わっている。

みんな毎日何かしら食べているだろう?

そのたべたものって体内で消化されて体を構成する一部になるんだけど、その時、元々そこについてた古い構成要素って排除されるんだよね、例えば排泄とかによって。

するとさ、数日で僕たちの体を構成しているものって完全に入れ替わるんだよ。

じゃあ、これが入れ替わる前の自分と変わった後の自分って同じ自分なのかな?

難しい問題だよね。同じ体を持っていると言いながら、数日後には全く違う部品で構成されているってことなんだ。

こういうのテセウスの船とかって言ったりするんだけど、興味がある人は調べてみてね。

だから、同じ体を常に持っているということを『自分たらしめるもの』にできないとわかった時に、じゃあ『自分たらしめるもの』ってなんなんだって思ったわけね。

それで最初に辿り着いた結論が記憶だったんだよ。

僕たちって生まれた頃の記憶はないにしても、小さい頃からずっと記憶は持ってるよね。

小学校のとき何があって、中学生で誰と付き合って、高校生で勉強頑張ってとか。

それで、今の自分に至るまでの記憶を持ってるんだよね。

けど、当然だけど、他人の記憶は持っていないし、自分以外の誰も自分の記憶は持っていない。

だから、記憶が自分たらしめることなんじゃないかなぁってぼんやり思ってたんだ。

けど、最近いろんな本を読んだり勉強していると記憶って案外当てにならないんだなってことに気づいてきたんだ。

例えば、記憶はよく捏造される。

ロスタフっていう心理学者が行った研究では、母親の協力を得て被験者の子供時代の出来事を三つ集めて、その出来事について詳細に教えてくれと被験者に頼んだんだって。

そして、そのときにその3つの出来事に加えて『ショッピングモールで迷子になった』という嘘の出来事を足して指示したんだ。

『きちんと母親に確認したよ』と付け足してね。

その結果、24人の被験者のうち、25%が偽りの記憶を報告したんだ。

つまり、実際にはショッピングモールで迷子になんかなってないのに、迷子になったという記憶が被験者の中で捏造されたんだね。

ちなみに『たったの25%でしょ?』って思った人もいるかもだけど、心理学の研究において25%ってかなり高い比率なんだよ。

ただ、この実験は母親の記憶が正しいという前提の基に行われているんだけど、本当にそうなのかって疑問は残ってるんだけどね。

『ショッピングモールで迷子になった』という出来事を母親が忘れていただけかもしれないもんね。

まぁ、そんなことはいいんだけど、とにかく記憶ってのは想像を膨らませることによっていくらでも作り上げられてしまうものなんだ。

迷子になんかなってないのに、ショッピングモールで迷子になった場面を想像することでその記憶が作り上げられてしまったんだ。

これを専門用語で『イマジネーション膨張』というんだ。

一切経験していない出来事でも、想像することさえできればその記憶が正しいという確信度を高めることができるなんて怖いよね。

こういった記憶の曖昧さって法廷なんかでも問題になることがあるんだよね。

事件が起きて裁判になると、法廷では目撃証言ってのが行われるんだけど、それの妥当性がさほど高くないんじゃないかってことがずっと言われてるんだ。

例えば、同じ場面を目撃していた人に話を聞くと、細かい内容が全然異なるんだ。

例えば、犯人の服装とか、一連の流れとか、被害者の行動とか、証言が十人十色なんだ。

これじゃ証拠として機能しないよね。

他にも、人は自分の記憶を信じれなくなることもあるんだ。そして、それによってやってもないことをやったと思い込んでしまうこともあるんだ。

Derren Brownっていうイギリスのメンタルマジシャンが行った実験で "Guilt Trip" ってのがあるんだよ。

これは簡単にいうと、『罪悪感』という感情を刺激することによって、人は自分がやってもいない殺人で自首するのかという少々むちゃくちゃな実験なんだ。

何をするかっていうと、ターゲットとなる参加者を一人決めてその参加者を含めた十何人かで合宿みたいなことをするんだよね。

一つの屋敷にみんなで何泊かして、さまざまな活動をするんだけど、当然ターゲット以外はエキストラさ。本当の目的を知っている。

まず、その合宿が始まるとそれぞれが初対面の体だから、団欒の時間があるんだけど、その団欒の中でターゲットに罪悪感を植え付けていくんだよね。

どうやるかっていうと、会話の中で『あ、悪いことしたな』とか『言わなきゃよかった』って思うことない?

そういうちょっとした罪悪感をターゲットの参加者が受けた時に、別の車でその様子を見ているDerrenが『ボーン』という音を屋敷に鳴らすんだ。そして、それと同時にターゲットと会話をしている人がターゲットの肩に手を置くんだ。

それを何回か繰り返すと、罪悪感っていう感情とDerrenが流す音と、肩を触れられるという出来事が結びつけられ、音を聞いたり肩に手を置かれるだけで罪悪感を覚えるようになるんだ。

『パブロフの犬』の応用だね。

その条件付けができたら第一ステップが終了で、そこから自分の記憶を疑うように仕向けるってフェーズに入るんだ。

残酷だよね。

何をするかっていうと、例えば、みんなで聖書を読む時間、前に出て指揮を取るファシリテーターみたいな人がいるんだけど、その人が赤いネクタイをしてるのね。

ターゲットもそれを見てるんだけど、そのファシリテーターは聖書を読みながら部屋中を歩き回るんだ。

そして、ターゲットの後方に行きターゲットから見えなくなった瞬間に、その赤いネクタイを外し襟元に隠していた黄色いネクタイを出して、また前に戻ってくるんだ。

ターゲットは後ろでそんなことしていると知らないから、『あれ、ネクタイ赤じゃなかったっけ?』ってなるよね?

そんなことを繰り返していくんだ。

その後、別の女性が出てきて読むんだけど、その人は来ていたワンピースごと早着替えみたいなことをしてターゲットを困惑させるんだ。

それから、みんなで食事の時間、長テーブルを囲んでみんなで食べるんだけど、その途中でスタッフみたいな人がターゲットに話しかけるんだよ。

その時、ターゲットは料理から目を離し後ろを向いて離し始めるんだけど、その瞬間、一緒に食べていた別の参加者(エキストラ)たちが食事が乗ったお皿を入れ替えて、全く料理が残っていないお皿をターゲットの前に置くんだ。

それが終わるとスタッフが話を切り上げるんだけど、話し終わって皿を見るとさっきより全然減ってるからターゲットも困惑するよね?

そして、横の人に『僕の食べた?』と聞くんだけど、『そんなわけないでしょ』と言われちゃんだよね。

そんな感じでだんだんと自分の見たもの、聞いたものを疑うようにしていく。

そして、最終日、屋敷で殺人が起こるんだけど(もちろんそういう設定ね)、その場に残っていた証拠から警察たちはターゲットを疑うんだよ。

最初は『やってない』と言い張るんだけど、本人も『本当にそうなのかな』と思って最終的に自首しちゃうんだよ。

なかなか残酷な実験なんだけど、すごく面白いからまた興味があったら見てみてね。

多分YouTubeに上がってるから。

てな感じで、人の記憶ってのは如何様にでも操作されて、捏造されて、どれが本当でどれが本当じゃないのかがわからなくなっちゃうんだ。

そう思うと記憶も全然当てにならないよね。

記憶は案外当てにならない。


最後まで読んでいただきありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?