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PSWに至るまで 自己紹介みたいな記事(はじめに1)
大学で社会福祉を勉強した。
専門は老人福祉。もともと特別養護老人ホームのボランティアで問題を感じたので「老人」をしたいという意欲で社会福祉学科に入りました。
ウチの大学は精神保健福祉士を法制化した先生もいました。友人のことをアドバイスしていただくことはありました。が、精神科の世界に入るとは思ってもいませんでした。
当時は精神保健福祉士の養成はしていない大学(まだ法制化前)でしたので社会福祉現場実習にいくことになります。
実習は、大学で「最も優秀な学生がいく」といわれていた生活困窮者の方が利用する施設に決めました。説明が難しいのですが、そこは、いわゆる複合型施設でした。実習前に学習支援をすることになり、入所しているお子さんに「泪橋を逆に渡ろう!」みたいな『あしたのジョー』ばりに「貧困の解消は学力だ」という信念でやりました。しかし、古参の偉い方から教授に連絡が入り「変な実習生」となり、実習中止。指導教授からこの件以降嫌われました。大学院進学も断念せざるを得ないことになりました。
話をもどします。
派遣のバイトをしたことのある知的障碍者更生施設(当時)で4週間の自習となりました。私の実習中止のことを知って受け入れてくれたのです。ありがたいことです。バイトで知り合った指導員を「指導者」に指名しました。バイトの時に私が大学生ということで休憩時に熱い話をしてくれたことがありました。この方の実習指導は素晴らしかったのです。本当に実習指導者に恵まれます。知的障碍者福祉に熱い思いをもった方でした。多面的にいろいろと教わりました。私と同じ大学の職員から嫌なこともされましたが、それ以上にこの実習指導はよかったのです。
このときの実習指導はその後の私の実習指導に影響を与えています。
私は大学院に進学をして「研究者」を目指していました。大学で勉強をした内容は絶対に負けません。施設もたくさん見学をしました。それに一緒に学んだ最高の仲間もいました、大学の授業もほぼ無欠席、最前列中央に座り、レポートは規定枚数の10倍を目標に書きました。教授は熱心が学生だと評価してくれました。しかし、既述の実習での失敗が決定打になりました。
大学院の話が指導教授からあると勝手に思っていたのもいけないのです。4年次の夏休み最終日に法学部の助教授の先生と飲み会がありました。いわゆる政治系のインカレの仲間です。そこで先生から
「あなた進路は?」
といわれました。
「大学院です」
と答えました。そこで大学院の出願締め切りが迫っていることを知りました。飲み会どころではありません。
翌朝、私は指導教授を探して大学を探しまくりました。昼に見つけて一緒の食事をしながら話しました。怪訝そうな顔をしながら指導教授は「大学院への推薦はできない。君は社会に出て経験をしたほうがいい」といわれて、さらに「今から研究計画書なんけ書けないだろ」と一蹴されました。「研究計画書はできています」と反論する気力さえありませんでした。大学4年の9月、すでに大学院進学を想定して人生設計をしていました。
指導教授は私を就職させようと躍起でした。ある地方が好きだった私はその地方の社会福祉協議会や社会福祉事業団を探しました。
あるときに県の社会福祉協議会の募集がありました。しかし、行きたい県なのですが、私が住む予定の家(家族所有の別荘)からは程遠い場所でした。教授に受験意思を伝えると、今までと態度が急変して良くなりました。私は勧められるままに出願をしました。しかし、距離的な問題があったので県の社会福祉協議会に試験辞退の連絡をしました。それを指導教授に理由を言って報告をしました。
「不可解だ!ほんとうに不可解だ」
これを連呼する指導教授。私は通勤できないことをつたえました。
「不可解だ。そんなの下宿すればいいでしょう」
だいたい、社会福祉協議会の薄給で下宿をするのは厳しいのがこの指導教授にはわかっていません。大学院をあきらめさせる計画でした。
私は大学院が諦められずにウチの大学に教えに来ている他大学の先生に相談をしましたが、私の指導教授が偉すぎるのもあって「話を聴くだけ」でした。
併せて地方の社会福祉協議会の内定をいただきましたが、生活すらできない給料とわかり辞退させてもらいました。
実家近くで就職を探そうといろいろ探しました。ほとんどのところは嘱託でした。結局、内定はするも辞退をすることの連続でした。
そんな中でで自力では無理の窮地に置かれてしまいました。「禊」に凝って今でいうパワースポットで「禊」をしていました。褌一丁で厳寒のなかでやるくらいでした。
いろいろな面で路頭に迷いました。
結局、福祉とは関係ない中小企業に入りました。社会福祉士の新卒で不合格でした。まだ、「福祉」が諦められずに2年目に社長が「介護事業を立ち上げる」というので介護保険事業所を立ち上げる準備をしまた。が、制度に縛られる介護保険サービスを使いたくとか、「老人から金をむしり取るんだよぉお前は」「オウムの麻原彰晃みたいにカリスマになって老人を従わせて儲けるんだよ」とか言う社長とぶつかってやめてしまいました。
介護保険の施行前に大きな介護会社に就職しました。センター長という名の営業でした。ここは専門家が非常に少なく、大学での知識も生かせません。福祉大学卒ということだけで社会福祉士の資格もありません。専門学校から社会福祉士と現任で介護福祉士を取得した同僚が「私は社会福祉士。お前は無資格」といわれて悔しい思いをしました。
介護会社は拠点整理になりました。本社に行くか辞めるかです。本社ならパソコンのスキルを活かして情報システム課といわれました。
撤退の1ヶ月くらい前に営業先の所長が事務所に現れました。「あのぅ」「あのぅ」と切り出せない様子でした。私は、あらかじめ用意してあった履歴書を出しました。所長は「そうそう!これ」ということでした。当時は撤退の話は一般には伝わっていなかったのです。ようはヘッドハンティングでした。今の給料と同額でボーナスは基本給の5.3カ月という好条件でした。
配属先は精神障碍者社会復帰施設(当時の援護寮、福祉ホーム)です。友人のこともあり、精神科には興味がありました。いきなり精神科の世界に飛び込みました。
それ以来、社会復帰施設、都会のクリニック、昼は職業訓練を受けながら夜学の専門学校(短期養成課程)に通い精神保健福祉士を取得、翌年には社会福祉士を取得しました。その後で介護支援専門員、社会福祉士実習指導者、精神保健福祉士実習指導者などを取得しました。
この世界は資格で意見がいえるかいえないか。就職も昇進も資格が基本です。
大学時代にいろいろな分野を渡った大先輩のPSWに言われました。
「あなたは古い体制の世界はダメ。性格的にね。精神科ならまだこれからの世界だからいいわよ」
これに影響されたのかもしれません。