宗教を学ぶための九つの理論 〜宗教探訪(6)
「宗教を学ぶための九つの理論」という本がある。厳密には「宗教の九つの理論」。宗教学の入門書のひとつで、当方が入手した時点で第三版。
タイラーとフレイザー
フロイト
デュルケム
マルクス
ウェーバー
ウィリアム・ジェイムズ
エリアーデ
エヴァンス=プリチャード
ギアツ
「九つの理論」というが、これら10人の著名な学者たちの宗教に関する論考を解説している本と言った方がいい。
当初は「宗教の七つの理論」というタイトルで1996年が初版、2006年にウェーバーが加わって「八つの理論」となり、2015年にウィリアム・ジェイムズが入って第三版。
と、ここまで書いて、心配になって調べてみたら、2021年にメアリ・デイリー(Mary Daly)という女性のフェミニズム神学者が加わって、「10の理論」第四版になっていた。買い直すにはつらい値段。
ざっとメアリ・デイリーについて調べてみると、フェミニズム神学者の先駆者で、カトリック教会の中の性差別の問題を主に扱っていたという。すでに2010年に亡くなっている。
これが加わった最新版が2021年に出されたことは理解できる。女性差別の問題が先進諸国でさえ解決されているようでされていないことが社会的に顕在化しているのがここ5、6年の状況であることは論を俟たない。比較的差別が少ないと考えられている欧米でもそうなのだから、世界でも有数のジェンダー意識後進国である日本の惨状はいうまでもない。
宗教の中の女性差別について考える機会は多いのだけど、個人的にはこういう学問的な話に広がりが欠けているのは如何ともし難い。
だが、しかし、このシリーズの本の話を書こうと思ったことで、この知識に得られたことはよしとしておこう。とりあえず書いてみることは悪いことではない。楽屋話をすべて明かす必要はないのだけど。
話が逸れた。
とりあえず、「九つの理論」として、話を続けると、八番目として九人目にウェーバーが加わったというのがなんとも不思議な、というより、不当な感じだ。ウェーバーの主著は『宗教社会学』なのである。
もとの八人がマルクスを除くと、人類学の系統であることがその理由の一端を示しているのかもしれない。社会学系統のウェーバーに対する著者の関心がさほど強くなかったということもあったのだろう。ウェーバーは欧米では下火になっていた時期が結構長かったという話も聞いている。日本人のウェーバー好きは偏愛とさえ言われているようなところがある。しかし、まあ、それは今回は問わない。実のところ、この本が今回の主役ではないからだ。「九つの理論」を辿ろうという話でもない(「看板に偽りあり」と言われかねないが、一応、最後に筋は通るだろうと思う)。
日本語で書かれる宗教学の入門書は、こうした本に書かれている内容を分解して、整理しなおして、瑣末な部分を削ぎ落としてコンパクトにまとめられている場合が多い。大学の学部で用いられるようなものでも例外ではない。というより、それが日本の「入門書」なのである。どの分野でも似たようなものだろう。九つの理論が一冊かけて解説されている本は多分ない。
そういうところから話が始まっていると、知識の世界を進んで行く道は当初から細く、それがさらにどんどん細くなり、そこに専門の細分化が加わると、視野は否が応でも狭くなる。やがて、何かのきっかけで周囲を見渡すと、自分がとんでもなく細いロープの上を綱渡りしているのではないかという現状に気づく。
そうであれば、最初からごちゃごちゃした話の中を進んで行く方がいいんじゃないかと思う。まあ、簡潔なものとバランスをとるのが無難な正解ではあるのだけど、ごちゃごちゃを避けるのが最近の傾向だ。避けたい人は避ければよい。まあ、そういう人はその道をそんなに奥まで進んではいかないのだろうけど。
話は逸れているようで、逸れていない。
前に、ブライアン・モーリスという人の比較宗教学の本がヘーゲルから始まっているという話をした。
なぜ宗教研究の話をヘーゲルから始めているかというと、ヘーゲルはカントの直後に位置づけられるからだろう。カントの前にはドイツ・ロマン主義と啓蒙主義がある。
やや簡単すぎるが、啓蒙主義における世界の二元論的分析、ドイツ・ロマン主義における世界の肯定、そして、カントにおける人間精神の自由。この3つの前提に立って、ヘーゲルは自らの世界理解を展開したと考えられる。
啓蒙主義、ドイツ・ロマン主義、カントを辿っていくとき、そこに見えてくるのはキリスト教神学の希薄化の過程が見えてくる。カントの『純粋理性批判』あるいは『実践理性批判』がその点では決定的であった。
カントはキリスト教信仰を強くもっていたから神を否定してはいないということになっているが、西洋思想において、キリスト教の神が決定的に臨終期に入ったのはカントにおいてであり、レトリックとしてはニーチェにおいて「神は死ぬ」。
啓蒙主義の時代にキリスト教は他の宗教と相対的に位置づけられるようになるが、まだ強烈に中心的な位置を与えられていた。つまり、世界は人間の精神世界も含めて、キリスト教の神によって説明されるという考え方はまだ当然のようにみられていたが、人間の精神世界をキリスト教の神から切り離しても大した問題はないということをカントは結果的に示した。
カントの精神思想史的な位置づけは、彼がどのようなキリスト教信仰を持っていたかとは無関係になされるものだ。人間の自由意志を強調したのはカントが初めてではないとしても、思想史的に決定的な意味を持ちはじめたのはカントにおいてであり、カントがいなくてはニーチェは登場しない。
もっとも、ニーチェにおいて死ぬのはキリスト教の神だけではない。ニヒリズムまで行くと、結局は汎神論的な思想が頭をもたげてくることになるが、ここでの話題は超えてしまうので、やめておこう。
つまるところ、キリスト教の神を捨て去らないまま、それを中心に鎮座させることなく、世界を探求する環境がカントにおいて、整っていたという前提で、ヘーゲルを出発点としてはどうかというのが、ブライアン・モーリスの着想なのである。
近代における宗教研究は啓蒙時代の「一神教vs多神教」という二元論的議論ではなく、世界を総合する思想の中で宗教はどのように位置づけられるのか。そこからマルクスの「宗教は民衆の阿片である」という言葉も生まれるのであり、ヘーゲルよりも少し以前のアダム・スミスの『道徳感情論』も位置づけられる。これなしに『国富論』を見れば、「神の見えざる手」は「経済お化けの手」にしかならない。また、敢えて遡れば、こうした考えがスピノザの系譜につながっていくのは当然の話。
彼らは宗教なしで世界を説明しようとしたのだ。キリスト教なしで、この文明世界を生きていく道理を求めた。その道理を宗教なしで説明しようとするのは無理がある・・・というよりも、西洋の哲学というのはそういうことは語らなくとも当然のこととしているところがあるのだろうと思う。
キリスト教に思想的に支配されたことのない日本においては、体得しがたい感覚なのではないかと思う。だからこそ、見えてくるものもあるのかもしれないが、両方を知っておくことに越したことはない。
最後に、
冒頭の「九つの理論」の前にはヘーゲルがいるのであり、それを飛ばして啓蒙時代の話をするのは話を見えにくくしていないだろうか。
人類学系の宗教研究はヘーゲルを避ける傾向にあるけど、それなしに啓蒙時代の宗教観察をタイラーやフレーザーのアニミズムなどの「原始宗教」に接続させるのは研究史の羅列でしかなく、これが一般的な入門書、概説書の問題点と言えるのではないかと思う。
項目を分けて、事典的な構成にするのはわかりやすいようでわかりにくい。一冊くらい、ヘーゲルあたりから説き起こす叙述的な宗教学入門書があってもいいのではなかろうか。
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