宗教研究のはじまり ー 宗教探訪(2)
もう少し「経験的に」話をする。
「キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、仏教、神道、儒教、道教・・・というのは宗教だ」
前回、そういう話をした。
「あまり異論はないだろう」ということにして、話は先に進んだ。
しかし、ここで挙げたものが「宗教」であることはどのようにしてわかるのか?
それは「りんごは果物」であることが明らかであるように説明など不要なことだ・・・。
こういう時の例えは、たいていリンゴだが、それはともかく、こういう説明がよくされる。
しかし、宗教とリンゴが分類されるときには、ちょっとした違いはある。
例えば、「リンゴは野菜ではない」という説明がリンゴの場合は可能だが、上に挙げた個別の宗教について、否定文での説明はかなり難しい。
「キリスト教は・・・ではない」
キリスト教はもちろん、自転車ではないし、カエルでもなければ、リンゴでもない。
「キリスト教は自転車ではない」は文章として可能だし、間違ってはいないが、ここでの文脈においては「リンゴは野菜ではない」と比較できる文章ではない。
野菜と果物という分類項目との比較で、宗教そのものが何かと並べて分類項目にはならないということだろうか。
道徳、倫理、哲学などが、宗教に比較的近いものとしてあげられるかもしれない。
しかし、果物と野菜くらいの関係にあるかというと、どうだろう。
もっとも、この方向に話が進んでいくのであれば、道徳とは何か、倫理とは何かという話にならざるを得ない。
さらに言えば、「宗教とは何か」という定義の問題を片付けずに、この先に進むのは難しいということになる。
ご存知の方はご存知のように、宗教の定義は「宗教研究者の数だけある」と誇張されるくらいに多い。
だから、ここではまだ、それについては触れない。
もう少し、「経験的に」行く。
教団、祭儀、戒律、信条
とりあえず、漠然と「宗教」というものを思い浮かべたとき、そこから思い浮かぶ要素というものはなんであろうか。
まず、信徒がいる。たいていは複数だ。つまり、教団といったような団体が存在していることが想像される。
「信徒なしの宗教」というのが感知されるとしたら、それは「神秘的な現象」ということだろう。しかし、それとて、人間が感知するからその存在が知られるはずである。
宗教は人間を通してしか明らかにならないということは、とりあえず、指摘しておこう。
その信徒たちは何をしているかというと、儀式めいたことをしているはずだ。個人で何かしているとしても、その行為は他のメンバーと共有されていることが想像される。
メンバーであることには条件があるはずだ。会員資格。
何かしらの決まりごとを守ることが要求されているのがありそうなことだろう。集団への帰属というのはそういうものだ。
宗教集団の決まりごとということになれば、戒律がまず思い浮かぶ。
「何かをすると、何かがあり、何かをしないと何かが起こる」というような決まりごとを守ることが要求される。
もっとも、そういう何か圧迫されるような決まりごとがない宗教もあるのではないかと考えてみると、そういう宗教もある。日本人ならすぐに思い浮かぶ。
仏教が宗教であるなら、多くの日本人は仏教徒であり、その儀式に参加することになんら不思議なことはないが、戒律を守っているという感覚はほとんどない。
「実は戒律は(文化的に)守っている」とか「仏教の修行僧などには厳しい戒律がある」という話は一般の人にはどうでもいいことだ。しかし、一般の人も宗教に関係しているのは間違いない。
つまり、普通の人が接する仏教には戒律はないと言っていいのだ。
それでも、仏教はやはり宗教だと考えられている。
神道のことを考えるともっとわかりやすいが、このくらいにしておこう。
何か儀式めいたことをしている人たちは一体なにを目的としているのか?
そういう疑問に対して、その集団のメンバーが「わたしたちは〜をしています」という説明をしてくれるかもしれない。
キリスト教であれば、「イエス・キリストを信じており、決まりに従って、神への礼拝を捧げています」というような説明をするだろう。
さらには、イエス・キリストとはなにものなのかなどという細かい説明も求めればしてくれるだろう。「なぜキリストを信じるのか」などなど。
どういう説明を端的にまとめたものが信条である。
こういうようにして、その宗教がなんであるのかがなんとなくわかってくる。
その後に生じる疑問は「なぜ、その宗教を信じられるのか?」などなのだが、ここでの目的からは外れてしまうので、当座はここでおしまい。
実際に、こういう過程を辿って、宗教全般についての知識を得た人はそういないだろうが、こういう説明は最初に特別な知識がなくても理解できるのではないだろうか(ここで「経験的」と言っているのは、そういうことだ)。
さて、この部分の見出しは「教団、祭儀、戒律、信条」としたが、最初は順序が逆で「信条、戒律、祭儀、教団」だった。文章を書いてから逆にしたのだ。
この4点は、実は宗教学の教科書などに時々出てくる「宗教の4要素」で、「4C」などと呼ばれたりする。
信条(Credo)、戒律(Code)、祭儀(Cultus)、教団(Community)
(このあたりから「経験的」ではなくなってくる)
この4要素を検討項目として、個別の宗教の「宗教度」を測ることができるのではないかという提案であった。当初はおそらく。
順番も「信条、戒律、祭儀、教団」が普通の並び順。
この順序の場合、ある宗教について、まず「この宗教は〜〜〜という宗教だ」ということがまずあって、話が始まる。
その宗教のことが最初からわかっているということなのだ。
基準になったのはもちろんキリスト教である。
宗教の研究はキリスト教との対比で始まった。
核心部である「信条」から説明は「戒律」「祭儀」「教団」と拡散していく。
しかし、見知らぬ宗教との出会いは、ここで見てきたように「見知らぬ行為をしている集団との遭遇」が最初である場合がほとんどである。
既存の宗教について、その核心部から説明を聞いていくことはあるだろうが、「宗教と感知されるものというのは何なのか」という問いの出発点は、出来上がった宗教の観察ではないだろう。
ここでは、いざ説明を始めたら、信者の話から始まってしまって、その方が自然だったので、見出しの順番を後から変えたわけである。
お気づきの方もいるだろうが、先に挙げた「4C」がぴっりち文句なしに揃っている宗教というのはあまりない。
仏教の一般信徒には戒律がないという話はしたが、神道には「信条」と言えるようなものすらない。仏教もあまりはっきりとあるとは言えない。民間信仰の類になれば、なおさら。教団があるかといえば、たいていない。
(カルト教団は集団が先に感知され、その内容が後からようやく知られるというのは示唆的だ)
揃っているのは、当然、キリスト教。それからユダヤ教とイスラム教。
この3つを基準に考えたのだから、あたりまえのことではある。
(「キリスト教に戒律はない」という人がいるかもしれない。基本的にはそうなのだが、あえてこじつけ気味の説明をすると、「戒律はあるが、守らなくてもいい」のがキリスト教であるとも言える。戒律的な要素が感じられるようになったら、その集団はカルト化の過渡的状態にあるかもしれないから注意したほうがいい)
宗教の4要素は「宗教研究の手段として適切なものとは言えないのではないか」と批判することがここでの本題ではない。
「宗教度」を測る基準としての意味を無邪気に信じられていた過去の話はともかく、宗教研究というものがキリスト教を基準としていることを示す好例なのである。
さらにいうと、つい最近まで、「宗教とはキリスト教のことだった」という言い方もできないことはない。
今日では宗教として並べられているものが、いかにキリスト教の基準に合っているかということを考えるのが宗教研究の始まりの始まりであった。
(その2、終わり。つづく)