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「天国にも麦と毒麦があります」

この記事では2024年10月6日(日)の十日町教会における礼拝メッセージを掲載しています。


聖書:マタイによる福音書13章24~30節

礼拝メッセージ本文:

これからしばらくイエスのたとえ話に耳を傾けます

 本日もイエスのたとえ話を聴きました。しばらくの間、礼拝においてイエスのたとえ話を集中的に取り上げて福音に耳を傾ける時を持ちたいと思っています。私が牧師になって10年以上が経ちました。主任牧師として毎週の礼拝説教を務めるようになってからも8年が経過しました。これまで教団が出している聖書日課を用いて聖書箇所を自動的に選んでいました。偏りなくその時々に選ばれた聖書から神の言葉を聞こうという思いがあってのことです。それはそれで意味あることだったと思っていますが、4年サイクルの聖書日課を用い続けているといつまでも読まれることのない聖書箇所が出てきます。またいま生きている中で聖書を通してこういうことを知りたい、聖書はなんと言っているのか尋ね求めたいという求めから出発できない難点があります。これまで4年サイクルの聖書日課を8年用いて2周しましたので、いったん聖書日課をお休みしてある主題に沿って聖書を読み、そこから私たちに語られる良い知らせを聞きたいと思います。その最初の主題としてイエスのたとえ話を取り上げます。まずイエスが告げ、私たちが求める天の国とはどのようなものなのか正確に知りたいと思ったからです。

天国は…人に似ている

 イエスはここで天の国を良い種を畑に蒔いた人に似ていると語ります。私たちが聞いた新共同訳聖書では「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた………」と訳されています。一方で日本聖書協会から新しく発行された聖書協会共同訳では「天の国は、良い種を畑に蒔いた人に似ている………」と訳されています。他の翻訳聖書においても天の国を良い種を畑に蒔く人にたとえていると訳されています。イエスは天の国を人にたとえました。ではどのような人が天の国に似ているのでしょう。

どんな人に似ている?

 その人は畑に良い種を蒔きました。すると人々が眠っている夜に敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行きました。毒麦とは簡単に言えば雑草です。畑から芽が出て実ってみると毒麦があったので僕は良い種を蒔いた主人のところに来て言います。「だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。」良い種を蒔いた主人は答えます。「敵の仕業だ。」そこで僕たちが「では、行って抜き集めておきましょうか」と言うと主人は「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない」と答え、収穫の時に麦と毒麦を選別したら良いと語りました。

どの組織、集団にも良き麦だけではなく毒麦がある(いる)

 このたとえはこれまでの教会の歴史においてさまざまな組織や集団、社会に置き換えられて考えられてきました。どこの組織、集団、社会においても良い種から実った麦のような人だけでなく雑草としか思えない人がいます。その人はいつも足を引っ張ることばかり。あの人がいなかったら円滑に物事が進むのに、1人のせいで全体の雰囲気がとっても悪くなる。どうしればあの人がいなくなってくれるだろう。そのように私たちは自分のことは棚に上げて他者を裁き、排除したい気持ちに駆られる弱さを持っています。しかし畑に良い種を蒔いた人は「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜いてしまうかもしれないから、そのままにしておきなさい。」と言うのです。イエスはこのような人が天の国に似ていると言います。つまり天の国には麦のような豊かな実りをもたらす人だけでなく、雑草のように煮ても焼いても食えない人がいっしょにいるところだというのです。

天国のイメージと現実とのギャップ

 このイエスのたとえを聞いて私は改めてこれまで自分が持っていた天の国のイメージを覆されました。皆さんはどうでしょうか。私は天の国といえば良い人しかいないところというイメージを持っていました。神さまへの信仰が篤い人とか、信仰を持っている人ではないけれど良い心を持ち善い行いをして生きている人たちのいるところ、それが天の国だと思っていたのです。だからこそ自分の思い描く天の国と今のこの世を比較して不平不満や時には怒りを感じる自分がいました。しかしここでイエスははっきりと天の国という畑には麦と毒麦がいっしょにいるのだと語っています。その畑の主人、つまり天の国の主人である神さまは良い種を蒔いて麦を育てる一方で毒麦があってもそれを取り除こうとしません。その理由は毒麦を引っこ抜く時に根っこが絡まって麦もいっしょに抜けてしまうかもしれないからです。警察が犯罪者を追い詰める際に下手を打って一般市民を人質にされてしまい、犯人は逮捕できたものの人質に被害が出てしまったと言う出来事をたまに耳にします。神さまはそのように麦が毒麦の巻き添えになることを望んでいません。それならいっそのこと毒麦をそのままにしておこうとされるのです。

発想の転換、思い違いの修正

 天の国は麦と毒麦を収穫の時までいっしょに育てる人に似ています。逆に麦と毒麦を熱心に選別し、たとえ少しの麦が犠牲になってでも畑から完全に毒麦を排除しようとする人とは似ても似つかないということです。イエスが生きていた時代にはファリサイ派という宗教指導者グループがいました。聖書にもよく登場します。「ファリサイ」という語は一説には「分離された者」(ギ:パールーシュ/ヘ:ペリシュ)に由来すると言われています。イエスが罪人や徴税人たちと一緒に食事をしているのに対してファリサイ派の人々が苦言を呈する場面が聖書に出てきます。彼らは様々な汚れから自らを分離して身を清く保って生きることを大切にしていたので、宗教的な教えを破って生きている、汚れた人である罪人や徴税人たちといっしょになって食事をするイエスの行動が理解できませんでした。イエスはおそらくそういう考えの人たちがいることを念頭に置いて良い種を畑に蒔き、麦も毒麦も収穫の時までそのままにしておく人のたとえ話を語っています。そもそもイエスを慕い求め、イエスの言葉に聞き従って生きていこうとする罪人と呼ばれる人たちとファリサイ派と筆頭にした宗教指導者たちのどちらが神の畑において麦であり毒麦なのでしょう。イエスのたとえを聞く私たちはそのような大胆な発想の転換、自分が麦で他者を毒麦だと考えていたけれど神さまの目から見たら実は…というような悔い改めが求められているのかも知れません。

天国を目指して

 この世においてあらゆる組織、集団、社会には麦と毒麦が混在しており、なんと天の国においてもそれは変わりません。その中にあって他者を裁くことに固執して、そこに全ての力を注ぐ人ではなく、少しの麦が抜けることも惜しんで収穫の時まで麦も毒麦もいっしょにしておく人が天の国に似ています。イエスは直前の13章1節以下で種蒔く人のたとえを通して一粒の良い種が百倍、六十倍、三十倍にもなることを告げました。毒麦を抜いていたら一緒に抜けてしまったであろう一つの麦からたくさんの実りが与えられるということを想像し、麦と毒麦が混在する世にあって忍耐と希望を持って収穫の時を待ち望みたいと思います。

 天の国って不思議で面白いところですね。イエスのたとえを通して私たちの理想としての天の国とは異なる、本物の天の国の姿形を教えられます。それは今日の麦と毒麦の話のように今の世の中とまったくの別物というわけではありません。ただある部分がこの世とは決定的に違うというのが天の国の秘密です。私たちはつい畑に麦と毒麦があったら少しの麦を犠牲にしてでも毒麦をすべて引っこ抜いて綺麗スッキリさせたほうが良いという価値観を持っていますが、天の国はそうではありません。私たちが生きるこの世と同じように天の国にも麦と毒麦が生えていますが、天の国を治める神さまのお考えは私たちとは異なり、少しの麦がいっしょに抜けてしまうことを惜しんで収穫の時までそのままになさいます。天の国は、良い種を畑に蒔いた人に似ているのです。

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キリスト教会の礼拝で行われている説教と呼ばれる聖書をテキストにしたメッセージを公開しています。

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