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「他人事として考えてみると」
ここでは2024年11月17日(日)十日町教会における日曜礼拝のメッセージを公開しています。
聖書:マタイによる福音書21章28~46節
メッセージタイトル:「他人事として考えてみると」
本文:
自分のことを他人事として考えてみる
「他人事として考えてみると」という説教題をつけました。ふだんの説教では他者の痛みについて自分事として考えてみようと勧めることが多いように思いますので今日はその真逆のことを勧めています。本日、他人事として考えてみたいのは自分の事です。自分の事というのは感情や主観が入り込んで案外冷静な判断ができないものです。そういう時に自分の事柄を他人事として、少し距離を置いてみることで客観的に物事を捉えたいと今日のたとえを通して思わされました。
イエスがたとえを語った文脈
イエスは今日のたとえを語る前にユダヤ教の宗教指導者である祭司長たちや民の長老たちと問答をしていました。まず祭司長、長老たちがイエスに尋ねますがイエスは即答せず「私もあなたたちに質問しよう」と言って彼らに質問し、彼らが「分からない」と答えたので「じゃあ私もあなたがたには何も言わない」と言って回答を拒否します。そして「ところで、あなたたちはどう思うか」と立て続けに2つのたとえを語りました。
一つ目のたとえ 二人の息子のたとえ
一つ目のたとえは二人の息子のたとえです。ある人に二人の息子がいて、それぞれに「ぶどう園に行って働きなさい」と命じます。兄は最初「いやです」と答えますが後で考え直してぶどう園に出かけて行って働きました。対して弟はどうしたかというと、「はい、お父さん」と返事は良かったのですが結局ぶどう園に出かけませんでした。イエスは問います。「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」皆さんにも質問してみましょうか。兄だと思う方。弟だと思う方。当然皆さんの答えは兄ですよね。口だけ良くて行動しない人間ではなく、初めは拒否しても後で考え直してぶどう園に出かけて行って働いた人が父の望みにかなう人です。
先週もぶどう園のたとえを聞きました。イエスがする話にはよくぶどう園が出てきます。それだけイエスが生きたパレスチナあるいはガリラヤという地方ではぶどう園がたくさんあり人々にとって馴染みのある場所だったということでしょう。またそれだけでなく彼らにとって馴染みあるぶどう園、生活の糧を得てよく口にするぶどうがなる園は神さまから与えられたものであるという思いが込められています。
ここでぶどう園で働くとは神さまのため、世のために働く、生きるということが言われています。私たちは家事育児を含めて何かしらの仕事をして生きています。お金のためと割り切って働く人もいるでしょうし、家族を養うため、趣味のためとそれぞれの目的で働いています。そのように日々何らかの目的を持って働く私たちに神さまは「私のぶどう園へ行って働きなさい」と呼びかけます。それは具体的に転職をしなさいということではなくて、あなたの現在の仕事、働きがお金のためだけでなく神さまのため、世のためにもなるように働きなさいということです。
星野富弘さんの話
日本キリスト教団出版局が発行している伝道新聞「こころの友」の11月号を読んでいましたら星野富弘さんの詩が目に留まりました。「痛ければ 痛みの中を 淋しければ 淋しさの中を歩こう」。そのように始まる詩です。星野さんはもともと大学で器械体操をやっていて中学校の体育の先生になります。しかし不幸にも体操クラブの指導中、転落事故により脊椎を損傷して手足の自由を失います。入院生活を送る中で口に筆をくわえて絵や文を書き始め、その後訪問に来たキリスト教徒の影響で洗礼を受けます。入院中の1979年に最初の作品展を前橋で開きました。その後も全国各地で作品展を行い人気を博し、2024年4月28日に呼吸不全のため永眠されました。78年の生涯でした。星野さんは不慮の事故によって20代前半という若さで寝たきりの生活を余儀なくされました。しかしその生活の中で星野さんはイエス・キリストと出会い、その招きに応えて洗礼を受けてたくさんの絵と文を世に残しました。それは神さまのため、世のために働いて生きること、「ぶどう園へ行って働きなさい」との呼びかけに応えるものだったことを思います。
私たちはいま自分が行っている仕事、働き、あるいは生き方を通して神さまに仕えることができます。最初は転職でもしない限りは難しいと思い、今日のたとえに出てくる兄のように「いやです、無理です」と思っても、口しか自由に動かせない星野さんがその口に筆を加えて絵と文を書くことを通して神さまに仕える生き方をしたように、様々な可能性を模索して今の自分の仕事や生き方を通して神さまにも仕える道を歩みたく思います。
兄だけでなく弟の姿も大切
たとえに出てくる兄は私たちの模範として考えられる人物ですが、弟の方は私たちと関係ないかというとそんなことはなくて、弟は私たちがなってしまいかねない恐ろしい姿です。弟は「ぶどう園へ行って働きなさい」との呼びかけに「はい」と答えましたが、実際には出かけませんでした。これを私たちに置き換えると、自分は神さまに仕える働きをしていると思っているけれど実際には何もしていないということです。私自身で考えてみると表面的には牧師、園長という仕事をしていて神さまに仕えているように見えるけれど、その働きや生き方の中身を問うと内実が伴っていないというとても恐ろしい状態です。このたとえを通して私自身、肩書きだけでなく「ぶどう園へ行って働きなさい」との神さまの呼びかけに言葉だけでなく行動を伴って生きることの大切さを改めて教えられ、身が引き締まる思いがしています。実際にイエスはこのたとえを祭司長や長老たちに語り、あなたたちはまさにここに出てくる弟であると告げました。これを聞いた彼らの衝撃はいかほどだったかと想像するに余りあるものがあります。
二つ目のたとえ ぶどう園で働く農夫たち
イエスは二人の息子に関する短いたとえに続いて少し長めのたとえを語りました。こちらもやはりぶどう園を舞台とするたとえ話です。ある家の主人がぶどう園を造り、これを農夫たちに貸して旅に出て、収穫が近づいたのでそれを受け取るために使いを送るのですが、農夫たちは収穫物を渡すどころか使いに暴行を加え、あまつさえ殺してしまうというお話です。ついには主人の息子に手をかける農夫に対して主人はどうするだろうかとの問いに対して、たとえを聞いていた祭司長、長老たちはその農夫たちを殺してぶどう園は別の農夫たちに貸し出すでしょうと答えました。
他人事として考えさせてから自分事として迫る
このたとえもまた祭司長や長老たちへのイエスの批判が含まれています。彼らは宗教指導者であり聖書に精通していたにもかかわらず神から遣わされた預言者たちを受け入れず葬って来ました。そしてついにはイエスすらも十字架につけて無き者にする道を歩んでいきます。祭司長や長老たちはまさか自分たちのことが言われているとは思わず、イエスのたとえを通して投げかけられた「さて、ぶどう園の主人が帰って来たら、この農夫たちをどうするだろうか」との問いに対して主人は悪人である農夫たちをひどい目に遭わせて殺すだろうと答えたのです。今日の2つのたとえに共通するのはまず自分事ではなく他人事として冷静に、客観的に考えさせて「この人たちは良くない」と答えさせてから、「実はこれはあなたたちのことですよ」と迫る点です。この手法はイエス独自のものではなく聖書に見られる預言者の手法です。
サムエル記に出てくるイスラエルの王さま・ダビデ
いま水曜日の聖書研究祈祷会では旧約聖書のサムエル記を通読しています。これはイスラエル王国の地盤を作ったダビデ王の建国物語ですが、単にダビデを礼讃するだけにとどまらない深みのある書物です。ある日ダビデは水浴びをしている美女を見かけます。気になったので誰なのか調べさせました。バト・シェバという女性です。夫がいましたがダビデは彼女を召し出して関係を持ちました。次にダビデは彼女の夫でイスラエルの兵士であったウリヤを激戦地へと送り出して意図的に戦死させてしまいます。ダビデは未亡人となったバト・シェバを王宮に引き取って自分の妻としました。一連の出来事を経て神さまは預言者ナタンをダビデのもとに使わしてこのようなたとえを語らせます。
サムエル記下12章1節以下です。旧約聖書の496ページ。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに/何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い/小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて/彼の皿から食べ、彼の椀から飲み/彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに/自分の羊や牛を惜しみ/貧しい男の小羊を取り上げて/自分の客に振る舞った。」ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。………」
イエスがたとえを通して用いた手法は旧約聖書の預言者の手法
ダビデはナタンの話を聞いた時、まさか自分のこととは思わず貧しい男から子羊を取り上げ自分の客に振る舞った豊かな男に激怒し、そんな奴は死罪だと言います。しかしナタンは告げるのです。「その男はあなただ」と………。まさに他人事として考えさえて答えを出させた後に自分事として迫る今日のイエスのたとえと同じです。ダビデの見習うべき点は、王さまという一番上に立つ身分でありながら預言者ナタンに罪を指摘されすぐにこれを認めて反省するところです。彼は弁明したり居直ったりすることなくすぐに「わたしは主に罪を犯した」と告白しています。この点がぶどう園で働く農夫たち、預言者が遣わされても無きものにするユダヤ教の宗教指導者たちと異なる点です。過ちを犯すという点ではダビデも私たちも何も代わりない存在ですが、果たして私たちは大人になればなるほど、また身分や立場を獲得すればするほどダビデのように生きるのが困難になっていくのではないでしょうか。
結論 私たちはどうか
さて、私たちはイエスが語る2つのたとえを通して二人の息子のうちどちらが父の望みどおりにしたのか、主人の僕に暴行し、息子の命を奪った農夫たちがどのような末路を辿るのか他人事として冷静に、また客観的に考えました。今日はそれだけでは終わりません。他人事として考えた事柄を最後に自分事として考える作業が待っています。自分自身はぶどう園へ行って働きなさい、神さまのため、世のためにも働きなさいとの呼びかけにどのように応えて生きているでしょうか。また神さまから与えられたぶどう園で働いているにもかかわらず、収穫の一部をお返しすることを渋っていないでしょうか。そのことを自問自答しつつ反省するところがあれば考え新たに今日から新しい歩みを開始したく思います。素直に罪を認めたダビデを神さまは赦してその後の人生も祝福しました。私たちもたとえ間違いを犯しても何度でもやり直すことができます。祈りましょう。
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