「赤泥棒」読書感想文~「青辛く笑えよ」編~

  

  献鹿狸太朗著、「赤泥棒」に収録されている二作目、「青辛く笑えよ」の読書感想文です。以下の記事は溢れんばかりのネタバレで構成されているので、注意してお読みください。「赤泥棒」全体を読破した上での、全体に関する感想は、別途note記事で述べようと思います。

登場人物

 念のためあまり細かいことは書きません。
一鉄:主人公
藤原:主人公の友達
梅ちゃん:一鉄が惚れ込んでいる女の子
船川先生:一鉄の学校の先生

一鉄


 物語の冒頭は、一鉄が船川先生の膝に乗っかって、死にたい死のうかなと駄々をこねることから始まる。正確には、「なあなあなあなあなあ、なあ、死にたいわせんせえ、せんせえ」。

「なあなあなあなあなあ、なあ、死にたいわせんせえ、せんせえ」
三年四組、香本一鉄はいつもこのセリフから始める。
 「はあ、死のっかな。死んだろっかな。どう思う?どう思うせんせ」
主語が無い喋り方は、無意識のうちの甘えから来るものだ。省ける言葉は全部省いたって伝わるという自信と汲み取ってもらえるという甘えの上に成り立った口吻である。

「青辛く笑えよ」より

 この一鉄という男は、かなり奇怪な人物として描かれる。真っ白な髪の毛に無数のピアス、ほとんどない眉毛、雪のような肌に浮かぶ、殴られた痣。そんな一鉄が、船川先生の膝に正面から跨って、猫のように甘えて吐いたのが上記の台詞だ。ちなみに三年四組とあるが、中学生ではなく、高校生だ。おそらく18歳、少なくとも17歳にもなって、教員のお膝の上で、せんせえ、せんせえと喚いている男。
 見た目も中身も不良そのもの。梅ちゃんのことは抱くどころか指一本触れようと思わないのに、梅ちゃんの部活の邪魔になる女の後輩には手を出した。奇怪千万なわりに竹を割ったような性格の、掴みどころがなくて、ドライな男。その中に無数のグロテスクな情動が蠢くさまは、物語の冒頭から描写されていた。

甘え

 主語を省いたって伝わるだろう、汲み取って貰えるだろう、靴を脱ぎ捨てて船川先生の膝に正面から跨って、その頭を胸で抱けるほど近寄ってもいいだろう、藤原の家なら飯を食わせてくれるだろうという甘えは持っているのに、本当は愛し方も愛され方も知らないのだ。いや、もしかすると、愛を知らないからこそ、渇望しているからこそ、そういう「甘え」に走るのかもしれない。一鉄がただそれだけのキャラクターでは、私はここまで引き込まれなかっただろう。

「愛」

 正直なところ、私はこれを読むまで、小説にありがちな「愛情に飢えたキャラクター」「お金を愛情だと思っているキャラクター」をかなり冷めた目で見ていた。そういう設定にすれば、かわいそうな子を安易に描写できるんでしょう。そういう子を救済すれば、誰もが祝う大団円を書けるんでしょう。そう思っていた。
 しかし、一鉄のそれは、そんな私の冷笑を正面から焼き尽くした。話した事もない同級生の女の子のために、身体を売ってまであんな金額を稼いだ理由。それを父親に奪われそうになったのは、単なるケチやお金欲しさではない。

一鉄はずっと、愛の可視化を試みていたのだ。

「青辛く笑えよ」より

 この文章を境に、一鉄の哀しさの根源がついに明らかになる。

 実の妹のことを「臭い玉みたいだ」と呼んだり、惚れ込んだはずの女の子の言葉を、惚れ込みすぎているが故に、何を言われても嫌いにならないからこそ、欠片ほども理解しようとしなかったり。愛情は欲しいのに、愛情が何なのか理解していない。何なら、愛着すらも持っていないのかもしれない。クラブ仲間のペネロペを信頼して梅ちゃんを預けることはできるのに、ペネロペを病院に呼ぶことはしない。船川先生の膝に跨っていたのも、船川の面倒見が良いからではなく、船川が自分に興味が無く、口が堅いからだった。

 ああそうか。一鉄は愛せないのだ。一鉄が愛だと思っているものは、その足元にも及ばない紛い物なのだ。読み進めるにつれて、それが痛いほど伝わってくる。

 喋ったことも無い梅ちゃんに惚れ込んで一千万円を身体で稼いだ男ではない。誰にも愛されず、誰にも愛せず、愛情に似た歪な何かを愛と信じ、それを可視化するために、たかが札束、偉人のブロマイドの集合体を愛の依代と信じた。その”愛もどき”の予行練習に偶然選ばれたのが梅ちゃんだっただけ。

一鉄

 私が好きなシーンが2つある。どちらも、一鉄の心情の最後のベールが剝がされる瞬間。正確に言うと、ベールを突き破って一鉄の激情がもがく瞬間である。

 だから一鉄は可視化した。時間や自尊心という目に見えないものを目に見えて誰にでも平等に使うことのできる札束に換金して、愛と銘打った。金を稼ぐことは愛の可視化、馬鹿にもやさしい人生の本当。もう生きていたくない、もう本当に死にたい、もう本当に、一瞬先がしんどい。しんどいのだ、疲れた、たくさんだ。期待なんて、懲り懲りなのに、どうして。

「青辛く笑えよ」より

 私はこの部分を最初に読んだ時、あまりの自然さに、視点の転換に気付くことができなかった。何度も読み返して、ある日突然これを見つけて、内臓を掴まれたような気がした。第三者視点、天の声のナレーションに、一鉄の想いが突然一人称で侵食してくる。

「なあなあなあなあなあ、なあ、死にたいわせんせえ、せんせえ」

「青辛く笑えよ」より

 冒頭に船川先生の膝に跨ってこぼしていた言葉とはまるで違う。言いようのないもどかしさを吐きだそうとしてこぼれてしまった未分化の感情ではない。真っ黒な、そして真っ白な、絶望そのもの。

 カギカッコの檻に収まらない、声にならない叫び。こういった叫びが、文中で何度も噴き上がる。それはやはり、献鹿狸太朗氏の文体だからこそ為せる技なのではないだろうか。登場人物の思案を、幾重にも重ねた語彙で描写する文体。その厚みを貫通する一鉄の叫び。

 もう一つのシーンは、終盤の藤原との会話である。藤原におどけて甘えて奢ってもらった缶コーヒーの値段を尋ねるシーン。

「べつにええ、奢りや」
「やとして、なんぼ?」
「……百三十円やったかな、べつにええ。そんなこと言うたらお前普段俺んちでどんだけ飯食っとんねんって話になるやろ」
「ああ、メシ……メシはなんぼくらい? いつも」
「いや、冗談や、そんなん今更どうでもええよ」
「百三十円分愛してる? 僕のこと」
 その台詞があまりにも哀しくて、しゃくりあげながら、堪えるのを諦めたように、唐突に零されたものだから、藤原亮は泣きそうになった。

「青辛く笑えよ」より

 梅ちゃんのために春を売って、一千万円も溜めたのに。それを父に奪われそうになって、文字通り死に物狂いで守ったのに。一鉄にとってお金は愛情なのに。一千万円分の”愛情”を既に知っているのに。藤原の愛を、百三十円の価値を確かめることが、どうしてこんなにも哀しいのか。正直なところ、これを読んだ時の感情について、私は今もうまく言語化できない。


藤原

 そんな一鉄に対して深い愛情を注いでいたのは、藤原だった。愛といっても性欲を伴うものでもなければ執着や独占欲ではなく、私に言わせれば「慈愛」、作中の本人に言わせれば「宗教」だった。一鉄が笑うところを見るのが、彼にとっての宗教であり、哲学。
 彼もまた、純粋な慈愛を一鉄に注ぐ菩薩のような人間ではなかった。好きだった音楽家に幻滅した理由。彼だけの正義。子供じみた怒り。その理由は、18歳の藤原が机上で練り上げただけの「愛」への自信だった。菩薩というより、敬虔な僧兵に近い。自分の「愛」の持論のために一鉄を愛し、一鉄の静謐な明日を祈り続けながら、一方で軽率な同性愛を歌ったアーティストには、狂気じみた怒りを向けたのだ。


「梅ちゃん」

 一鉄が惚れ込んだ相手である梅ちゃんこと梅澤めぐるがただの純粋無垢な女の子でないのも良かった。混乱させることを書くが、梅ちゃんはただの純粋無垢な子ではない。純粋無垢すぎるのだ。端的に言うとピュアすぎて、ウブすぎて、イタい子。そんな梅ちゃんが、一鉄に抱かれるわけでもなく、純粋なままで味わった挫折。一鉄は梅ちゃんを理解できなかったが、梅ちゃんも一鉄を理解できない。作者は一鉄だけに歪みと欠陥を押し付けなかった。作中では、梅ちゃんのもとに救済は訪れない。しかし、梅ちゃんが大人になった時に、自分が不可逆に変わった日として、あの日をきっと思い出すだろう。それは悪いことではなく、誰にでもあることなのかもしれない。そんな気がする。


まとめ

 ここ最近読んだ本の中で、最も心を動かされたのがこの「青辛く笑えよ」だと言っても過言ではない。全てを言語化することは難しいしキリがないので感想文はここまでとするが、言葉にならない様々な思いが、今も私の脳内で燻っている。
 これはただの愛の話ではないし、友情の話ではないし、家族関係の話でもないし、若者の葛藤の話ではない。孤独の話と呼ぶのも、安易すぎる。人はこんな感情を抱くのか。それが交差した時、こうなるのか。全てが私にとって驚きだった。
 一鉄は救済されるだろうか。死ななかったのは救済だった。そして、藤原の前でそうやって泣くことができたのも救済だろう。しかし、彼が”愛”を知る日は来るのだろうか。彼の白髪を撫でる手は現れるのだろうか。それは分からないけれど、一鉄はこれからは、さらに笑って生きていくのだろう。








おまけ:自分語り

 もちろんこの作品の一鉄ほどではないが、私自身も、お金というものにやや特別な感情を載せていた時期がある。
 他の記事で書いた通り、私が高校1年生の冬に母親が逝去したので、そこから今(23歳、大学4年)に至るまで、私は父子家庭で過ごしている。父は仕事が忙しいので、私の生活費やお小遣いは、クッキーか何かの缶に入った千円札で全て賄われている。Excelで作った表に日付と名前(妹と私の名前が書いてあるうち、私の名前に〇をつける)と、取った千円札の枚数を書く。特に使用用途を書かなくても、多少金額が多くても、怒られない。恵まれているかもしれないが、私が父から貰ったものは、名も無い家事を除いては、ほとんどこれだけだった。
 当時はひどくナイーブだった17歳の私の感性は、「自分が生きることへのコスト」が野口英世の人数で可視化されることに耐えられなかった。安く済ませたはずなのに、千円もかかった。服も買ったら、二千円かかった。通学定期を買ったら八千円した。自分が生きているだけでこんなにお金がかかって、それを父に頼り切っていて、将来は自分が稼がなければいけなくて、でも、それができる気がしない。とにかく、生きているのが嫌になった。別件で病み散らかしていたこともあって、私の死にたさは倍増していった。私にとってお金というのは、生きづらさの可視化だった。

 何が言いたいのかというと、「お金が必要以上に本人にとって意味を持つ」というのは、案外簡単に起こることなのだ。そういう意味で、上で述べた「お金を愛情だと思っているキャラクター設定は安易なのではないか」という持論を、私は今も信じ続けている。
 しかし、「青辛く笑えよ」を読んで変わった意見もある。お金が本人にとって貨幣とは違う精神的な価値を持つのは、確かにありふれたことだ。しかし、それに至った理由や、抱いている感情、そこから起こされる行動は、千差万別なのかもしれない。例えば「お金を愛情だと思っている」という設定があるとしても、他人が自分にお金を使うことを愛情だと思っている人も居るだろうし、一鉄のように、稼いだお金を使わず溜めることで愛の可視化を図る人も居るだろう。居るのだろうか。分からないけど。
 そして、そうした多様な状況が想像される中で、一鉄を「ありふれた状況」の枠に収めず、無邪気さと悲哀と暴力性と空虚さを兼ね備えたパーソナリティを、あれだけの臨場感で書き上げた作者は、やはり只者ではないのだ。


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