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0146 - 責めるべきは人ではなく仕組み

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知り合いが主催する月に1度の清掃活動に参加している。最初の数ヶ月は海岸で。目立つゴミがほぼ無くなったということで、先月からは少し場所を変えて川沿いのゴミを拾っている。

クリーン2

クリーン1

およそ1時間ほどの清掃活動なのだが、毎度なかなかの量である。

参加者がこれらの様子をFacebookに投稿すると、きまって寄せられるコメントが「酷い人がいますね」「けしからん人がいるんですな」といったもの。これらのコメントに自分としては正直ちょっと違和感を覚えてしまう。

もちろん、ゴミを捨てる行為自体が非難の対象になってしまうのは理解できる。こんなところに捨てる人がいなければ清掃活動を行う必要も無いわけだし。ただ、憎むべき(改善すべき)は『人』ではなく、『ゴミ』そして『環境』だと思うのだ。

そもそもゴミが、土などの自然に還るものではなく、そのまま放置しておくと環境に悪影響を及ぼす素材だから問題になるわけで。また、そういった素材のゴミが出た場合に処分しやすい流れになっていないから、適当にポイ捨てしてしまう人が現れるわけで。憎むべき(改善すべき)は『ポイ捨てするとマズイ素材の存在』と『ポイ捨てのほうが楽だと感じさせてしまう環境』である。

現在世間を騒がせている新型コロナ騒動について人が人を非難することに違和感を覚えるのにも近い。そもそも、新型コロナが脅威でなければ不安を感じることもないはず。憎むべき(改善すべき)は猛威を振るっている状況そのものだ。どんなに予防していても絶対的な安全など保証されない状況において、人が人を憎んだところで根本的な解決にはならない。

坂本龍馬が(※実は偉人ではない説が出ていることは一旦置いておいて)、身分制度で苦しめられていた中で、当時当たり前だった『敵討ち』や『天誅』のように権力者を直接的に殺めるのではなく、『身分制度そのものを潰す』という考えで奔走していたように、憎むべき(改善すべき)は仕組みや環境である。

憎悪や闘争の構造は、ほとんどの場合、目先の状況改善こそあれど『根本的な解決』には繋がらない。人を非難せず、変えるべきは自分の行動と環境。そのために何をすれば良いのかは日々勉強しながら動きながら考える。清掃活動は、その考えるきっかけと1つとして大きく機能している。これからも積極的に参加していきたい。

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