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私と英語

今回は私と英語との関わりについて書きたいと思います。

始まり

英語とのお付き合いは当時は当たり前ですが、中学からです。中学時代はそこそこの成績は上げたものの、それほど興味があったわけではありません。

転期

英語が自分にとって大きな位置付けになったのは、高校3年時に英語を担当していただいた先生のおかげです。その先生は、松田優作ばりのかっこよさで、憧れでした。その頃から、アメリカに留学したいと思い始め、そのためにはその制度がある地元の南山大学に進学したいと思い始めました。南山大学は地方大学ですが、外国語学部は、東京外大、上智大に次ぐ3番目ぐらいの位置付けでした。

同大学では、英語の試験に「ヒアリング」がありました。受験術をその先生に相談したところ、英語のディクテーションが役に立つということで、旺文社の英会話のテープを貸してくれました。それを真面目にディクテーションしました。このやり方は、ヒアリングを鍛え、単語を学ぶのに本当に良かったと思います。

文法では、当時の英語受験のバイブルであった美誠社の「基礎からの英語」を破れるまで読み込みました。また、これだけ覚えれば大丈夫と言われた青春新書の「試験に出る英単語」の単語を単語カードに書き取り、片手で単語カードをめくりながら、片道30分の自転車通学をしていました。今なら、危険運転で捕まるようなことですが、何せ田舎なので、何かあれば、自転車ごと田んぼに落ちるぐらいです。

おかげで、その大学の外国語学部英米科に無事合格することができました。

大学時代

大学に入学すると、その大学の中等部・高等部から上がってきた人たちは、高校時代から生の英語に触れており、英語の実力が明らかに違っていました。そのため、クラスではパッとしませんでした。

大学には米国の州立大学との交換留学制度があり、そこに参加するには、TOEFLである程度の得点が必要でした。私の得点を見て、担当教授には、「この成績では留学は難しい」と言われてしまいました。ただ、なぜか留学が認められることになりました。

米国留学時代

大学3年の秋から米国のイリノイ州立大学に1年間留学しました。同大学は、イリノイ州のNormalという小さな大学町にあり、周囲は見渡す限りトウモロコシ畑という環境でした。

10名ほどの同じ大学からの交換留学生は、International Houseという寮に入りました。そこでは、海外からの学生と交流したいという米国人たちと同室で一緒に暮らすようになっていました。私は、アメリカ人とイラン人と同室になりました。初めての一人暮らしが、海外でした。

授業では、英語と米国史を専攻しました。米国史の授業では、英語についていけず、隣の米国人女性にノートを貸してもらえないかと頼んだところ、見事に断られました。日本では、いつも試験前に今の妻からノートを借りて、それで勉強していたので、衝撃でした。

歴史の試験では、いつも3−4冊ぐらいの課題図書を読んでおく必要がありました。必死で読み込んで、試験に臨みましたが、得意のマークシート方式だったので、Aの成績を取ることができました。

寮生活は、月曜日から金曜日までは夜必死で勉強し、土曜の夜には寮内のホールでディスコパーティがありました。

当時付き合っていた同じ寮にいた米国人学生との会話が、私の英会話力向上に間違いなく貢献しました。

この留学が、私にとっては大きな変化をもたらしました。留学前は、もの静かな大人しい性格で、人前で話すことなど到底できませんでした。留学してから、何にでも前向きで、色々なことに挑戦する性格に変わったと思います。

大学卒業

米国留学から帰国したのは、大学4年の6月で、そこから英語教師になるために、教職課程を受講し、私の母校の高校で、教育実習に行きました。誰からも私には教師が合っていると言われていたのですが、実際に教えてみて、英語に興味のない子に教えるのは大変だなと思いました。

高校2級・中学1級の教員免許を取得し、愛知県の教員免許試験を受けたところ、補欠ですが合格しました。一方で、車が大好きだったこともあり、愛知県で一番大きな会社であるトヨタ自動車工業を記念に受けてみました。当時は、販売会社であるトヨタ自動車販売とは別会社であり、英語ができる人は少なかったとみえ、10/1の会社訪問だけで、採用が決まりました。これも英語を学んだ成果です。最終的には、世界中で仕事ができそうなトヨタを選びました。

新入社員時代

トヨタに入社後、広報部に配属され、海外からのVIPや報道機関の受け入れや、広報資料の作成、海外情報の分析・報告等の仕事につきました。当時の上司は、東京外大出身で、トヨタの中でも最も英語ができる方でした。その上司のもとで、海外の記者やお客様と役員との会話の通訳、お客様の工場見学のアテンド、英文の雑誌・新聞の翻訳、海外向け広報パンフレットや映画の作成、等をしました。何せ、上司が圧倒的に英語力があるので、その前での通訳は冷や汗ものでした。

その後、東京の海外広報課に異動し、海外特派員への対応や、役員インタビュー立会い、英文ニュースリリースやアニュアルレポートの資料作成等に携わりました。1987年のトヨタ創立50周年のアニュアルレポートは私が担当しました。ニュースリリースは、アメリカ人の同僚との共同作業でした。

中堅社員時代

広報部には7年在籍し、その後海外向けの補給部品輸出を担当する名古屋の部署に移動しました。それまでと違い、完全な営業部門で、私は補給部品の価格設定やマーケティングに携わりました。その当時の上司は、上智大学の外国語学部出身で、ビジネス上のコレポンでずいぶん指導を受けました。また、補給部品の価格交渉は、当然英語で、かなりシビアなやりとりを経験しました。

また、当時は家から一番近い駅(7キロも離れていました)から、名古屋中心部の会社まで電車と地下鉄で片道約30分ぐらいの乗車時間でしたが、その時にペーパーバックの英語の推理小説にハマり、ずっとそれを読んでいました。その成果か、初めて受けたTOEICの試験結果は920点で、会社の英語のランキングとしてはトップのS級と認定され、それ以降の受験を免除されました。

駐在員時代〜定年まで

4年間名古屋で過ごし、その後家族でカナダに5年間駐在しました。会社では、自分の担当部署では日本人は一人しかおらず、ずっと英語での仕事でした。仕事の内容は、従来の部品価格運用・マーケティングに加え、赴任前より携わり始めたトヨタ生産方式による部品倉庫やディーラーのアフターセールスオペレーションの改善が加わりました。倉庫やディーラーで実習するなどローカルの英語にもどっぷりつかることになりました。

家族の方は、妻は私と同じ大学の同級生だったので、英語には問題はなかったのですが、幼児から小学生低学年の3人の子供たちは、いきなり現地校に入れられ、英語だけの世界でずいぶん苦労したようです。

その後、ベルギー3年、米国3年の単身赴任を含めて、ずっと海外のトヨタのアフターセルス活動に携わっていました。日本にいる時も含めて、ずっと英語が私のツールでした。

役職定年
米国駐在の最終年に役職定年の55歳となり、帰国後はそれまでの部署とは全く異なる技術系職場に配属されました。部下はなく、ほとんど仕事も分からず、英語も使うことのない悶々とした時代でした。

貢献できることが少ないので、週1回昼休みに技術系の若手に英語を教えることにしました。もともと英語が苦手で技術系に行った人が多かったと思います。ただトヨタでは、海外での研修や、昇格のためには、特定のTOEICスコアをクリアしないといけないので、彼らは必死になってついてきました。私が作成した毎日2時間のカリキュラムと週1回のフォローアップを3ヶ月続けた結果、ほぼ全員がTOEICの得点を100-150点向上させ、それぞれ、研修や海外赴任に旅立ちました。生徒は変わりながら、そういった昼休みの研修を2年ほど続けました。

私も、教えるからにはと毎回TOEICの試験を受けました。その結果は大体960-975でしたが、5回目に満点の990点を取ることができました。

現在〜今後

再雇用を2年で卒業して、すぐに株式会社PROTEAN HIROを立ち上げ、その中に英語通訳・翻訳・講師を業務に加えました。ただ、あまりプロモーションをしていなかったこともあり、この2年半で、翻訳と通訳が1件づつあっただけです。

今年は、英語をさらに極めようと、英検1級、TOEIC L&R/W&S 、IELTSを受け、秋には全国通訳案内士を受けようと思っています。

仕事としては、役職定年時代に開発したTOEIC得点向上法をストアカで発売すべく、現在、トライアル中です。また、全国通訳案内士の資格が取れれば、来年からは通訳案内士をやりたいと思っています。

まとめ

英語との付き合いは、すでに50年以上になり、英語のおかげで私のキャリアを築くことができました。今後も、国内では観光事業が大きな位置付けを占めることから、インバウンドを対象としたビジネスに英語を活かしていきたいと思います。

また、ある程度英語を極めたら、次は中国語にもアタックしたいと思っています。


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